Archive for 11月, 2013

Q : (教育学部の大学1年生)英語を読むことはわりに得意です。辞書があれば何とかなります。大学の英語の授業はほとんど講読なのであまり苦労はしていません。しかし英語の会話が全然できません。中学・高校ではオーラルの授業も少しはありましたが、私は引っ込み思案であまり話したことがありません。話せるようになるには英会話スクールに行くのがよいでしょうか。

A : 日本の学校で英語を学んだ人の典型的な例ですね。英語を読むことはある程度できても(本当に読めるのかどうかは別にして)話すことには自信がない、こういう人が日本には多いようです。むかし学生だった頃には筆者もそういう一人でした。しかし考えてみると、英語を話すことが不得意なのは当然のことです。なぜなら、私たちは日本に住んで日本語で生活しているかぎり、英語を話す必要がほとんどないからです。中学や高校の英語の授業では、英語を話すことに力を入れている授業が最近増えてきました。そういう先生に英語を教わった生徒の中には、話すことを得意とする人も以前よりは増えてきたようです。そしてそれは時代の要請でもあり、望ましいことです。

しかし英語を「話すこと」(スピーキング)を学ぶのと、いわゆる「会話」を学ぶことは同じではありません。そもそも「会話」というのは学校で教えられるものなのでしょうか。まず「会話」の定義を辞書でしらべてみましょう。広辞苑には「相対して談話すること。また、その談話」とあります。ちょっと硬い定義ですが、要するに「(複数の人たちで)話し合うこと」です。英語の辞書ではどうでしょうか。OALDの定義は次のようです。

conversation: an informal talk involving a small group of people or only two; the activity of talking in this way.

この定義は分かりやすいですね。要するに、「会話」とは(1)形式ばらない、うちとけた話し合いであり、(2)2人または少人数の人たちの間でなされるものです。日本で育った私たちはみな日本語を習得しましたが、会話というものを意識的に教わったことはたぶんありません。そういう記憶は誰にもないでしょう。記憶にあるのは、誰かに会ったときに母親から「ちゃんとご挨拶をなさい」、「そんな言い方は失礼ですよ」、「大人の話に子どもが口を出してはいけません」などと注意されたことではないでしょうか。これらはすべて、会話をするときの「決まり」(ルール)に関する事柄で、会話そのものではありません。ルールならば教えられます(それについては次回に取り上げる予定です)。

さて学校で行う授業では、そういう社交的な場面を作るのは容易ではありません。どうすれば授業の中に「形式ばらない、うちとけた話し合い」をするような場面を作ることができるでしょうか。これはなかなか難しい課題です。そういう授業を試みている先生もいます。しかし正直なはなし、そのように作為的な場面で自然な会話が進行するとは思えません。ゲームをしたりディスカッションをしたりすることはできますが、それらは特定の学習目的を持ってなされる活動であり、自然な会話とは違うものです。極端な言い方だと思われるかもしれませんが、会話は授業では教えられないものです。それは「習うより慣れよ」ということわざの通り、日常的に英語を使って生活している人たちと気楽に話をする経験を通してしか学ぶことができないものなのです。

これに対して、学校の授業ではスピーキングを重要な指導目標の1つとして取り上げることができます。スピーキングの目標は簡単に言うと次の2つです。

(1)相手の話すことをよく聴いて理解し適切な応答をすること。

(2)自分の話したいことを相手に正しく伝えること。

こういう活動ならば英語のすべての授業に取り入れることができます。この2つの活動を中心に展開するのが「スピーキング」の授業です。

以上の議論を基に、今回の質問者の最後の問い「英会話スクールに行くべきか」にどう答えるかを考えてみましょう。行く、行かないは個人の自由ですが、まず行く前に考えるべきことは、学ぶ目的を明確にすることです。漠然と話せるようになりたいというのでは駄目です。たとえば「英語のネイティブ・スピーカーと会話をする経験を積む」ことに目的をしぼることです。会話が「習うより慣れよ」であるならば、会話経験を積むことが必要だからです。気になるのはこの質問者の「引っ込み思案」(英語では ‘shyness’ )です。それ自体は悪いことではありませんが、自分でそう決めつけるのは良くありません。英語を話すときには常に積極的な態度が必要であり、引っ込み思案は克服されなければなりません。筆者の経験からは、それを克服することは可能です。(To be continued.)

(168)これからどうする‐マクロの展望

<経済大国から人権大国へ>

③ 人権は守られているのか

 人権について各党の政策を吟味する際の基準として、私はルーズベルトの4つの自由を用いている。最近は各政党ともHPにかなり詳しい政策集を公表しているから、その党の実際の政治行動、社会の現実と、4つの自由を照らしあわせて検討すれば、それぞれの党の人権に対する本音が見えてくる。その際憲法97条が規定しているように、基本的人権は、国家に先立って、人間が生まれながらに持っている権利であることを忘れてはならないだろう。

1. 言論の自由

  NHKで働いていた頃、BBCのプロデューサーから「日本の庶民の本音を知るにはどうすればよいか」と聞かれたことがある。彼は英文毎日や朝日イーブニングの投書欄( letters to the editor )などを読んで、どうもこの国の政治や社会の状況とは一致しないと感じていたようだ。私は彼のジャーナリストとしての勘に敬意を表するとともに、「日本の新聞はロンドン・タイムズやガーディアンとは違う。投書者の身分や職業を調べてみればわかるよ」と答えておいた。しばらくして彼は、「わかったよ。ほかに方法はないのか」と言ってきたので「自分で直接取材するしかないだろ」と答えると、彼はNHK本部近くの下宿から下町に引っ越して町の人達の日常に触れ、地方取材の折にもその地の人達と接触を続け、やがてそれを一冊の本にまとめた。私はBBCの権威主義的なところが嫌いだったが、このプロデュサーを通して、BBCのジャーナリズムとしての歴史の厚さを感じた。

 日本の大手新聞への投書者の大部分は、退職者、主婦、医師や自営業者、教師・公務員など、企業の圧力とは関係の薄い、つまり身分保障にあまり心配のない人達である。日本を支えている中核としての働き手達の本音が投書欄に現れることはまずないだろう。長い戦いの歴史がある欧米諸国と違って、占領軍によって与えられたこの国の言論の自由は、未だ未成熟なのだと思う。それは、本来言論の府であるべき新聞やTVについても同じだ。新聞が政治権力の圧力を受け、それが新聞社トップを通じてどのように新聞の論説に伝わるかを、丸谷才一の「女ざかり」があざやかに描いている。モデルになった新聞社の論説委員は、論説委員会の様子など、よくまあここまで調べたものだと感心したという。NHKについては先に「NHKと政治」(アーカイブ 2012−7−7)で触れた。NHKを政府の御用放送に作り変えたいらしい安倍首相の介入に、内部の人間は抵抗できるのだろうか。内部の人間が死に物狂いで抵抗しなければ、外部の支援は受けられないだろう。かつて、私を含めて、自分の将来と家族の生活をかけて戦った先輩達がいたことを忘れるな。

 日本ののメディアが掲げる「不偏不党」というスローガンは、「政治的に偏らないという意味ではなく、右から左まで幅広く読んでもらいたいという自己宣伝に過ぎない」(佐藤卓己京大大学院准教授)。だから、国民大衆の意識次第で報道の軸はどんどんぶれる。政治権力はそれを巧みに利用する。私は、最近の2020東京五輪の報道にそれを強く感ずる。

 こういう言論状況の中で、安倍政権は「特定秘密保護法案」を今の臨時国会で成立させようとしている。安保防衛オタクの石破幹事長は「遅すぎた」とさえ主張している。この法案の概要を読んでいると、まさに雲のように疑問が湧き上ってくる。まだ整理がつかないので、思いつくままに列記し、この法案の国会審議を聞きながら、まとめていこうと考えている。
判断の基準は、政権の中枢をブラックボックスにしてはならないという立場だ。

* 国民の知る権利を制限する理由について、自民党の石破幹事長は「知らしめたことによって国家の存立、国民の生命、財産、公の秩序が揺らいでしまうものは、国家は国民に対して秘密は守る義務をおっている」と述べているが、私にはどんな秘密なのか見当がつかないので、過去の具体例を挙げてもらいたい。
* この人物の上から目線にはいつも辟易するが、この発言は、「知らしむベからず、由らしむべし」という封建時代の権力による情報統制、統治方法を思い起こさせる。
* 知る権利がなければ、言論の自由も成り立たない。石破発言通りになると、国民は自らの運命を左右する重大問題について知る機会がなく、発言の機会もないことになる。再び政府に否応なく自分の運命をまかせることになるのか。
* 国民の生命、財産を守ることが国家の最大の使命ではないのか。国家の存立とか公の秩序とかは、その後の問題だろう。
* 安倍政権の考える国家安全保障会議いわゆる日本版NSCは、首相の下に情報を一元化すると言う。そしてこの情報に特定秘密保護法の網をかけるのである。極秘情報はNSCの独占状態になり、国民は○○桟敷に置かれる。戦時中の大本営と同じだ。判断の材料もなく再び大本営発表を聞かされるのか。
* NSCの担当閣僚である森少子化担当相は、この法案による罰則を科す取材方法の例として沖縄返還密約を暴いた西山事件を挙げた。この事件が裁判になった時、我々の報道部でも激しい議論があり、賛否が分かれた。私自身は今も釈然としない気持ちを引きずっている。この時、毎日新聞が一方的に世論の袋叩きに会ったことを考えると、佐藤忠男に言う”軽薄な民意”の怖さを感じる。
* この法案には、「法に触れない限り」「取材の自由に配慮しなければならない」とあるが、配慮とは極めて恣意的な行為で、何の保障にもならない。1.相手を褒める 2. 相手のライバルを褒める 3.相手の弱点を握って脅す 4.贈る というのは、古今東西、相手に口を割らせる常套手段だが、3.4.は刑法に引っかかる恐れがあるから取材者は自己規制するようになる。
* 高度な技術による原発を持つことは、核抑止力につながるという意見があるが、そうなると、原発もこの法案の対象になりかねない。原発をテロから守るという理由で、原発をめぐる取材が制限されるかもしれない。何しろ何が特定機密なのかわからないのだから、拡大解釈は自由自在ということになる。
* NSCやこの法案がアメリカの要請に応えるためのものであることは明らかだが、アメリカの諜報機関が友好国であるドイツのメルケル首相の携帯電話を盗聴していたことを考えると、日本政府は道化を演じているのかとも思える。
* 主要な35カ国の首脳の電話を盗聴していたと報道されたことについての記者団の質問に。菅官房長官は、安倍首相の電話は大丈夫だと太鼓判を押したが、つまりアメリカにとって日本の機密などはどうでもよいのではないか。そうなると、この法案は、アメリカのためのみにあるということになる。
* 集団自衛権を行使する際にアメリカ側と交換する情報の秘匿を直接の目的にするものであるが、集団自衛権の行使そのものが憲法違反なのだから、この法案も憲法に違反するのではないか。
* 特定秘密を扱う数万人の官僚は、身ぐるみ脱がされるような厳しい身元調査を受けることになっており、この人達のプライバシイーは完全に失われる。それに応じないと出世できない。
* 特定秘密を扱える官僚達のみが出世して特殊社会を創り、既成の既得権層と結びついて日本の社会を牛耳るようになる。いつか来た道だ。
* 敵性国家(中国、韓国、ロシアなどと見られる)の男性(或いは女性」と結婚すれば、特定機密取り扱い資格者から排除されることになっているから、一緒の人種差別で、憲法14条に違反するのではないか。
* 厚木基地では、米軍機が飛行規制を守らないので、市民グループが飛行場の周辺で米軍機の機種や騒音を調査しているが、こうした市民活動も規制されるかもしれない。
* 役所に情報公開を求めても、黒塗りの資料しか出さないような情報公開法をそのままにして、こういう法律が成立すると、行政はブラック・ボックス化する。
* 国会の国政調査権も有名無実になり、行政権のみが肥大して、3権分立の原則があやうくなる。
* 関係省庁は情報提供の義務を負うことになるが、官僚の特性からNSCに都合のよい情報ばかり集まるようになる。CIAの誤って情報でブッシュ政権のNSCがイラク戦争を始めた2の舞になる恐れが強い。
* 情報が不足すると、人権蹂躙で悪名の高いCIAまがいの機関が欲しくなるだろう。

 特定秘密保護法案には、日本弁護士連合会、日本ペンクラブ、雑誌協会、書籍出版協会、新聞労連、民間放送労連をはじめ多くの団体から反対の声が上り、最も直接的影響を受けそうな日本新聞協会は、強い危惧の念を表明した。また、この法案をめぐる政府のパブリックコメントには9万人が意見を寄せ、その80%が反対であった。

 この法案をめぐる論議と結末はこの国の言論状況、ひいては民主主義と人権に大きな影響を及ぼす。昔、軍機保護法が国防保安法、治安維持法へと拡大され、軍事情報の秘匿がやがて産業秘密や個人のプライバシーにまで及び、最高刑も懲役10年から死刑になって、国民の人権破壊につながった歴史を繰り返してはならない。なるべく秘密を少なくすることが、民主主義国家のあるべき姿であるとすれば、この法案を葬り去ることこそが国益であると私は思う。(M)