Archive for 4月 25th, 2015

蟷螂の斧 ⑤ 私にとっての沖縄                

 日本がアメリカを盟主とする連合国軍に無条件降伏してから今年の8月で満70年になる。私は7月に86歳になるから、無条件降伏の時満16歳、旧制中学の4年生であった。私が沖縄を強く意識したのはその年の4月の初め、日本軍の沖縄守備隊が、上陸したアメリカ軍に対して最初の総攻撃をかけ、(後からわかったことだが)甚大な損害を出した直後の頃で、私達は、学年の初めとあって勤労動員の工場から学校へ呼び戻されて数日間の特別授業を受けていた。担任の教師が、戦局はますます急であり、お前らはお国のために滅私奉公しなければならない、軍関係の学校へは積極的に志願するようにというようなマンネリ調の話をしている時、となりの席からB-29が撒いた伝単(宣伝ビラ)が回ってきた。ビラには、「これは沖縄で捕虜になった日本兵です」という説明のついた数十人の集合写真と、列を作ってアメリカ兵から何かもらっている住民達の姿が写っていた。私の目は写真と説明文にくぎ付けになった。入学以来たたき込まれてきた軍人勅諭や「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓で凝り固まった頭ではとうてい理解できなかったのである。教師に見つかって散々ぶちのめされ「非国民として憲兵隊へ引き渡す」と脅された肉体的苦痛もさることながら、私の頭には、「これは本当に日本軍なのか、沖縄の人間は本当に日本人なのか。こいつらには大和魂はないのか」という疑問が渦巻いていた。中学校では学徒動員でほとんど学習の機会を与えられなかったから、それが私にとって沖縄との最初の出会いだったと思う。

 それから4か月で日本は無条件降伏し、アメリカ軍が進駐して来た。我々にとって絶対的な存在であり“蹶然立って米英を撃滅せよ”と命じた最高司令官の大元帥陛下が占領軍司令官のマッカーサーを訪ね、戦争遂行の最高責任者だった東条英機陸軍大将が拳銃自殺に失敗して進駐軍につかまるという醜態をさらし、東久邇宮内閣が”一億総ざんげ”という責任逃れの大号令をかけ、”尽忠報国″だ“突撃精神”だと生徒を煽った教師たちが一夜にして平和主義者に豹変するなど、“大和魂”を振りかざしていた大人たちの”腑抜け“ぶりをいやというほど見せつけられて”人間不信に陥り、秋田に逃避して、食い物だけは何とか保障された生活の中で、何で負けたのか、これからどうやって生きていけばよいのか思いまどった。自国の政府に欺かれ、敵国の宣伝ビラで真実を知ったという事実は、これからは自分の頭で考え、判断しなければまた騙されるということを教えてくれたが、何しろ中学校ではほとんど何も勉強していないので、もう少し勉強しなければ判断のしようもないと思って上京した。

 東京に帰って学費と食うためにアメリカ軍の水耕農場で通訳のまねごとをして働く中で、空腹でふらつく日本人労働者を蹴り上げるアメリカ兵達を見てみぬふりをし、野菜のpacking工場から連れ出される若い女性の悲鳴を聞こえないふりをして見過ごす自分も、全く同じ”腑抜け“だと思わざるをえなくなっていった。ようやく、伝単の中の日本兵捕虜や沖縄の人達の心の中の苦しみに気付いたのである。同時に、「いのち」を脅かすような「環境」を作りださないことが人間社会の根源であり、そのためには何をしなければならないかを考えるようになった。沖縄には「生命どう宝」という言葉があるという。そういう意味で沖縄は私にとって「いのち」を考える原点になったと言えるかもしれない。

  アメリカ占領軍による統治は、冷戦の激化と朝鮮戦争のおかげで、日本本土では意外に早く6年8か月で終わった。しかしこの時、サンフランシスコ平和条約によって、沖縄は本土から切り離され、異民族統治がさらに20年も続くことになった。早期講和は朝鮮戦争が誘因であったから、アメリカの狙いは平和条約ではなく、同時に調印された日米安保条約とそれに伴う行政協定(後の地位協定)であった。基地に関する詳細は国会の承認を必要としない行政協定に盛り込まれていたが、それは、アメリカ側の全権であったジョン・フォスター・ダレスが「アメリカが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保するのがアメリカの目標である」と考えていたからであった。( 戦後史の正体:孫崎亨 )そして、その最大の被害者が沖縄であったことは言うまでもない。

 学校教育の欠陥の故とは言いながら、戦時中沖縄についてあまりにも無知であった私は、戦後になって沖縄戦の真相が明らかになるにつれて、そのあまりの悲惨さに、再び心を揺さぶられ、自分なりに沖縄を知ろうとするようになっていった。そして、17世紀初頭の薩摩藩による琉球王国侵攻以来、明治政府による「琉球処分」、沖縄を本土決戦準備のための捨て石とした太平洋戦争、その沖縄を切り捨てたサンフランシスコ条約、密約による嘉手納基地での核兵器の貯蔵、復帰後も続く基地の押し付けと300年にわたって続いて来た本土による差別の歴史を知った。私が安全保障問題を記者としての柱にしようと考えたのには、沖縄の問題もあったと思う。 

今回、辺野古での海上滑走路の建設をめぐって、菅官房長官が沖縄県の反対を押し切って“粛々”と進めると述べたことについて、翁長知事が「上から目線のもの言いである」と批判した時、これは、沖縄を差別し、負担を押しつけてきた我々本土の人間が言うべきことであったと思った。その3日後に国会の場で、挑発的に「粛々と」と言ってのけた安倍首相の無神経ぶりには、いつものこととはいえ、激しい憤りを感ぜざるを得なかった。         

 安倍首相のこの挑発的なもの言いの背後には、本土の人間の間に、安全保障上の問題だから政府にまがせるべきだという考えが広く存在することがある。だが、本当に沖縄に基地を集中させ、海兵隊を常駐させることが必要なのか。ダレスが言ったように、アメリカにとって便利だということに過ぎないのではないか。沖縄では、辺野古を含むキャンプ・シュワブに軍港を作る計画があり、そのため米軍は辺野古の滑走路に固執するのだともいわれる。それは、100年をこえる沖縄の半永久的なfortress化に他ならない。 (沖縄読本 仲村清司 )元航空自衛官で民主党政権の防衛相をつとめた森本敏は、「沖縄のアメリカ海兵隊施設は日本の西半分のどこかであれば軍事的には問題ない」と述べていたという。(東大教授 高橋哲哉)
* 行政協定では、基地を施設と称している。

 日本の安全保障上、海兵隊基地が必要だと考える人達は、少なくとも沖縄基地の半分程度を西日本に移すよう主張すべきではないか。本来は保守派である翁長知事が、安倍首相との会談で「辺野古への押し付けは理不尽である」と述べたのは、沖縄に基地の74%を押しつけて恥じない本土の人間の身勝手への抗議でもあると私は感じた。厚木基地への米軍機の進入路の真下に35年間住んで、深夜や低空での飛行はしないという約束などはどこ吹く風と飛び回る米軍機の騒音にさらされて来た私には、沖縄の人達の心情がある程度はわかる。普天間が世界一危険な飛行場だから移転させるというなら、人口の密集する大都市のど真ん中にあって大惨事を招きかねない厚木基地はどうするつもりなのか。

 沖縄の基地問題に触れることは、アメリカの”虎の尾”を踏むことだという。たしかに、“虎の尾”を踏んで放り出された総理大臣がいた。それ故か、安倍政権の政策構想完全版と銘打った250ページに及ぶ「新しい国へー強い日本を取り戻すために」には、沖縄問題にはほとんど全く言及がない。忘れたわけではないだろう。前轍を踏まぬよう用心したためなのか。或いは、基地問題の現実から対米従属の姿が浮かび上がってくるのを恐れたのではないか。

 先日、公園へ散歩に行こうと川沿いの遊歩道を歩いていると、向こうから市議会への立候補者と運動員がゾロソロ歩いてきた。私は既に投票する候補者を決めているので、黙って通り抜けようとしたら候補者が握手を求めてきたので一応手を握ったら「市の発展のために全力投球するので是非よろしくお願いします」という。つい昔の癖が出て「それで、厚木基地はどうするの?」と訊ねてみた。「それは、国の政策の問題ですから」と逃げるので「沖縄では議員達が先頭に立って基地返還運動をやっているよね」と追い打ちをかけると、手を引っ込めて無言で去って行った。市のど真ん中に広大な面積を占め、空を爆音が覆うような状態では、市の発展などはありようがないだろう。

 独立国の中に外国軍隊とその基地が100年も存在することになりそうな異常な事態について、事なかれ主義の政治家達、選挙権を放棄し、おまかせ民主主義に身を委ねる多くの国民、これでは、「日本をアメリカの世界戦略の前進基地として、望むだけの期間、自由に使う」というジョン・フォスター・ダレスの呪縛は100年たっても解けけそうもない。(M)

(参考書類等)
* 戦後史の正体 : 孫崎亨  創元社
* 沖縄読本 : 下川祐治 仲村清司 著・編  講談社現代新書
* 沖縄「県外移設論を受け止める」 : 高橋哲哉 これからどうする 岩波書店
* 新しい国へ <強い日本を取り戻すために> : 安倍晋三  文春新書 
* 人間と国家 (上・下) : 坂本義和  岩波新書