Archive for 6月 6th, 2015

蟷螂の斧 ⑧ <メディアのいつか来た道>

2.メディアが煽った戦争

 私の小学生時代の愛読書の筆頭は、田河水泡の「のらくろ」だった。街をうろついていた黒いのら犬がひょんなことから軍隊に入り、失敗を繰り返しながらも手柄を立て昇進していくシリーズの漫画物語を、金持ちの坊ちゃんから借りて回し読みした。「のらくろ」は布表紙で一部1円という高価な本であったが、創刊号は50万部以上売れたという。

 作者の田河水泡は、もともとアバンギャルドの画家で、生活のために漫画を描き始めたのだが、昭和7年、講談社の「少年倶楽部」に「のらくろ」の連載を始めるに当たって次のように述べている。「社会の組み立てに何か納得がいかなかった。富の分配が不公平で、金持ちと貧乏人が両極端に立っている。『のらくろ』は貧乏人の立場から話を組みたてようと考えた。」

 彼の考えは大恐慌の後の沈滞した社会の大衆の間に共感を呼び、「のらくろ」は今でいうキャラクター商品としても広まっていった。漫画は、子供たちの間で圧倒的な人気を得て、およそ10年間続き、いわばホームレスだったチビな野犬は”猛犬聯隊“の大隊長・少佐にまで昇進した。猛犬聯隊が退治するのは、はじめのうちは、猿や象、それに蛙などであったが、やがて豚になった。この豚が”チャンコロ“と呼ばれていた支那兵(中国兵)にあてつけたものであることは、子供でも分かった。

 この10年間は日本が、5.15事件から満州事変そして太平洋戦争へと急激に軍国主義への傾斜を強めて行った時期である。「のらくろ」が、新兵の供給源であった農村の次・三男の間に軍隊は”平等社会“”実力社会“という幻想を植え付けるのに貢献したことは間違いないだろう。田河水泡は戦後「今にして思えば、侵略戦争のお先棒を担いでしまった」と述懐していたという。

 小学生時代が終わろうとする頃、太平洋戦争が始まった。緒戦の日本軍の華々しい戦果に、日本中が沸いた。私の小学生時代の最後の思い出は、卒業目前の翌年2月、難攻不落と言われたシンガポールのイギリス軍が降伏し、全校生徒から募集した記念ポスターで、一等賞になったことだった。「東亜の牙城ついに陥つ」と真ん中に筆で大書し、銃剣に日の丸をつけた兵士たちが万歳をする絵をあしらったポスターは、廊下の突き当り正面に掲げられた。

 「東亜の牙城」などという言葉を小学生が自分で思いつくわけはない。それは新聞の見出しからとったものだった。新聞の一面には毎日、このような勇ましい見出しが躍っていたのだ。もちろん私は、記事の中身は読んでいない。多くの人達が、見出しだけで内容を推測してしまう。それは今でも変わっていないのではないか。最近では、週刊誌の見出しがおどる新聞の下段大広告や電車の中吊り広告で世論が形成されていくのではないかとさえ思える。

 中学校に入った頃には、「のらくろ」を卒業し、同じ講談社が出版する「見えない飛行機」とか「浮かぶ飛行島」「新戦艦高千穂」など、今でいうSFまがいの戦争小説を読みふけった。これらの冒険小説に通底するのは、欧米諸国への敵意である。西洋人のスパイが現れ、「アジアの曙」を実現せんとする日本の軍事機密を盗もうと暗躍する。私たちは西洋人とみるとスパイではないかと思うようになり、、近所から西洋人が消えて行った。

 「のらくろ」やこれらの冒険小説は明らかに、国防の重要性とそのための戦争の正当性を、知らず知らずのうちに次代を担う青少年の心に植え付けていった。評論家の加藤秀俊は、これらの少年大衆文化は、戦争の日常化という機能を果たしたと指摘している。
 
 太平洋戦争の敗色が濃くなって、まわりの大人たちが次々に出征して行き、学徒出陣で同じ勤労動員先の工場から大学生達がいなくなると、徴兵年齢の引き下げもあって、いやでも次は自分たちの番だと思わざるを得なくなっていった。その頃はやった歌に「麦と兵隊」がある。

 “友を背にして道なき道を、行けば戦野は夜の雨、「すまぬ、すまぬ」を背中に聞けば、「馬鹿を言うな」とまた進む、兵の歩みの頼もしさ”

 “腕をたたいてはるかな空を、仰ぐ眸に雲が飛ぶ、遠く祖国を離れ来て、しみじみ知った祖国愛、
友よ来て見よ、あの雲を“

 これは、中国戦線に従軍した作家火野葦平の「麦と兵隊」が映画化された時の主題歌である。私は勇壮な軍歌よりも、哀調を帯びたこの曲が好きだった。多摩川の土手にひとり寝そべって、空を行く雲を目で追いながら、時々この歌を口ずさみ、やがて自分にも来る戦場での日々と祖国に殉ずる時を想った。しかし、頭を冷やして考えれば、他国の土地を軍靴で踏み荒らし、そこを祖国とする人々を戦禍にまきこみながら、”聖戦”という美名の侵略戦争の真実を知らされず、知ろうともせず、手前勝手な感傷に浸っていたというほかはない。

 「麦と兵隊」など「兵隊3部作」が大ベストセラーとなり、戦後も「花と竜」などで有名作家になってがらも、自らの戦争責任を問い続けたという火野葦平は、敗戦から15年後の昭和35年、自宅で自ら命を絶った。

 新しいメディアのラジオもまた、戦争遂行の有力な手段として使われた。私がNHKに入った頃の国際局報道部には、戦争中に当時の海外放送「ラジオ・トウキョウ」にたずさわっていた人達がかなり残っていた。彼らは、大嘘の代名詞になった「大本営発表」を850回以上垂れ流し、情報局の検閲を受けた同盟通信社のニュース原稿をラジオ用に書き直して放送、これを英文にしたRADIO TOKYOのニュースを作成、放送した。さらに、“TOKYO ROSE”たちの読む原稿の作成にもあたった。

 私は泊まり勤務の夜に、これらの先輩達に、かなり執拗に当時の様子を聞いた。勿論私は先輩達の責任を追及したり非難するために訊いたのではなく、内幸町のこの同じ放送会館で、戦争中どんなことが行われていたかを知って、再びそのような事態を招かないために何をすべきかを考えるために、直接体験者から実体を聞きたいと思ったのだが、なかには「検閲も知らない青二才が、何を言うか!」と怒り出す人もいた。

 当時、新聞社や通信社、それに放送局(NHKのこと)の原稿は、新聞紙法によって情報局に検閲されていた。新聞紙法には、「国軍存在の基礎を動揺させるような事項」「軍事・外交上重大な支障をきたすような事項」「社会の不安を惹き起こすような事項」など13項目の禁止事項を含む検閲基準があり、これに触れれば忽ち責任者が呼びつけられて、削除、訂正を求められ、場合によっては新聞や雑誌は発売禁止となった。何ら具体的性のない主観的な判断でどうにでも解釈できるような検閲基準に触れないためには、やばいことは書かないのが、自分にとっても、仲間にとっても、協会にとっても当然のことだったと多くの先輩たちは語った。私はここに「忖度による自己規制」の典型を見た。

 しかし、メディアは、これらの法律がるから戦争に協力しただけではなかった。戦争を商売に利用したのである。新聞は、大本営発表で号外を打ち、次の日に本紙でこれを詳報するという手口で発行部数を伸ばして行った。歴史探偵を自称する元文芸春秋編集長の半藤一利によると、日露戦争では、大阪朝日新聞が戦前の11万部から戦後は30万部へ、東京朝日が7万から20万、大阪毎日が9万から27万、報知が8万~30万、万朝報が10万から25万へと3倍前後部数を増やした。その後日本がほぼ10年ごとに繰り返した戦争は新聞にとってまたとない拡販のチャンスとなり、自由主義社会では珍しい大部数を発行する現在の巨大新聞が生まれたのである。一方、反戦平和を貫いた「平民新聞」は、新聞紙法に触れ、くり返される弾圧によって廃刊に追い込まれた。

 戦後同盟通信は、占領軍によって共同通信社と時事通信社に分割されたが、日本放送協会(現在のNHK)も大手新聞社も、講談社などの大手出版社なども、一部の幹部が追放されただけで、組織は生き残り、今の新聞社の体質に影響を与えたことはまちがいないだろう。ナチスにかかわったドイツの新聞社がすべてつぶされたのとは対照的であった。

 敗戦によって日本のメディアは占領軍(GHQ)の検閲下に置かれることになったが、これに対しても従順だった。今度はGHQが、メディアを占領目的遂行のための道具に使ったのである。GHQの検閲本部はNHKの隣の富国生命ビルにあった。国際局の先輩たちの話では、窓から富国生命ビルの同じ高さの窓を見ると、Wacが着替えをしているので、慌てて首をひっこめたが、拳銃弾を撃ち込まれたという。ここに私は武力を伴った言論弾圧の典型を見た。(M)

< 参考書籍等 >

* 戦争肯定への傾斜 「のらくろ」 : 加藤秀俊  朝日ジャーナル 
* 日本人は何故戦争へと向かったのか「メディアと民衆の熱狂」 : NHKアーカイブ 
* そしてメディアは日本を戦争に導いた : 半藤一利、保坂正康  東洋経済新報
* ラジオ・トウキョウ 戦時体制下日本の対外放送 : 北山節郎  田畑書店
* 日本の戦後 (上) 大新聞は何故戦後の弾圧を総括しないのか: 田原総一朗  平凡社

次回は <メディアのいつか来た道 > 3.いつか来た道とメディアの今  ( 6月20日 )