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ご承知のように、安倍首相が5月3日の記念日に憲法改正を求める集会にビデオ・メッセージを寄せ、東京オリンピックが開催される2020年を目指して憲法改正を推進したいと述べました。その中で、具体的な改正の例として、憲法9条1項、2項のあとに自衛隊の存在を3項として明記すること、及び高等教育を全ての国民に開かれたものとすることを挙げました。これは私的な団体への首相の個人的な激励のメッセージではありますが、これまで憲法改正に関して具体的な改正点に触れなかった首相としては異例のことです。さっそく反論も出ていて、これらがすんなり受け入れられるわけではないようですが、これからしばらくは、国会をはじめあちらこちらで、この首相案をめぐって喧々諤々の議論がなされることでしょう。

憲法9条については筆者も人並みに関心を持っていますが、2番目の高等教育をより開かれたものにする問題については、常々筆者の最大の関心事であり、老骨に鞭打ってその議論に加わる必要があると感じています。もとより、選挙で一票を行使する以外に政治に関与する方策を持っていない一国民に過ぎませんので、いくら口角泡を飛ばして議論しても仕方のないことかもしれません。しかしこの教育問題については筆者も日ごろからいろいろと考えており、このブログの場を借りて一言私見を述べさせていただきたいと思います。

最初に、安倍首相がこのことに触れているメッセージ箇所の文言を確かめます。すると「(義務教育と同様に)高等教育についても、全ての国民に真に開かれたものにしなければならない」となっていて、一部の新聞に書かれている「高等教育の無償化」という言葉は使われていません。首相の立場からは「無償化」というような、実現の見通しが立たないものではなくて、もっと実現可能な現実的方策を国民に議論させるのが得策だと考えたのでしょう。そう考えると「高等教育を真に全ての国民に開かれたものとする」という表現は実に巧妙であり、そのこと自体に反対する人は少ないと思われます。逆に、そういうことは憲法に書き込むまでもなく、現行のままで十分に対応できるという議論も起こるでしょう。首相は本丸の憲法9条改訂の衝撃を和らげるために、この誰もが反対しないと思われる教育問題を緩和剤にしよう考えたのかもしれません。

ところで、大学を含む高等教育の「無償化」を目指すにしろ、それを「全ての国民に開かれたものとする」にしろ、その議論は必ずや財源の問題を避けて通るわけにはいきません。無償化とまではいかなくとも、それを全ての人々に開かれたものにするには、何を措いても財政の裏づけが必要になるからです。義務教育である小・中学校の無償化は現行憲法で無償とすることが定められていますが、それでさえ、授業料以外の保護者の負担はかなりの額に達しており、完全無償化は完全には達成していません。また、進学率が100%に近い高校ですら、私立学校を含めた授業料の無償化はいまだに達成していません。そもそも公立高校の授業料が無償とされたのは、民主党政権が2010年3月に成立させた「公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律」でした(注)。しかし私立高校には無償化は進んでおらず、東京都が近く無償化を進めると聞いていますが、それが他の県にまで広がるのかどうかは不明です。授業料の無償化を大学教育まで拡大するとなると、国公立大学に限ってもその道のりは遠いと言わなければなりません。

そういうわけで、この問題を首相や政府あるいは国会だけに任せておくことはできません。彼らに任せておけば、いろいろと議論はするでしょうが、現在の経済と軍事優先の政策のままでは、結局は財政的に困難だということで終わるのは必然です。現在の文科省が進めているような財政の裏づけのない改革は、きわめて部分的なものであり、現場の教師たちをますます多忙にし、教育の質的低下につながります。そうならないようにするためには、高等教育を全ての国民に開かれたものとすることがなぜ必要なのか、という根本のところから議論を始めなければなりません。それがぜひ必要なのだという認識を多くの人が共有するようにならなければ、財源の障壁をぶち壊すことはできません。国民の多くが、自分たちの納める税金の多くの部分を教育に注ぎ込む覚悟がなければならないのです。

いま筆者の手許に中澤渉著『なぜ日本の公教育費は少ないのか』(勁草書房2014)という本があります。この本は、日本における公教育費への財政支出が低いのはなぜかという問題に真正面から取り組んだ研究です。まず国際比較において、日本政府の教育に対する公的支出の割合はきわめて低く、先進国で最低水準にあります。OECDの表(2013年)によれば、「公的支出全体に占める公教育支出の割合」は日本が9.3%で、他の先進国の支出(スイス、デンマーク、ノルウェーなどの15%台)をはるかに下回っています。同OECDによる「対GDPの公教育支出の割合」も日本は3.8%で、ノルウェー、デンマークの8.8%とは大きく水をあけられています。高等教育への支出についても日本は0.7%で、ノルウェー2.6%、デンマーク2.4%とは大きな差をつけられています。なぜ日本はこのようなことになったのでしょうか。

中澤渉氏の分析によれば、高等教育の費用負担について、社会が負担すべきだと考える人は少数で、親や家族が負担すべきであると考える人が約8割を占めるという調査結果から、結局のところ、「日本人の間で、教育があまり公的な意味をもつものと認識されていない」ということが、日本の教育費負担に関する最大の問題になっているというのです。日本では教育費、特に高等教育の学費は個人の責任であり、社会全体で支えなくてはならないものではない、という考え方がいまだに一般的なものとなっているのです。ではどうしたらそういう国民意識を変えることができるか?―中澤氏もそれに対する魔法の杖は持っていないようです。結局は、教育費を公的に負担すべしという理念が社会的に浸透するのを待たなければなりません。道は遠いけれど、教育専門家をはじめ、この問題に関心を持ち、そのことに気づいた人たちが声を合わせて、公教育における費用の負担の必要性を広く訴え続けるしかないのです。

その場合に警戒すべきことが一つあります。それは、政権が主導してそういう政策を作成するのがよいという考え方が、国民の多くに存在することです。現在の安倍首相のような力あるリーダーが主導すれば、事柄がスピーディーに進展するように思えるのかもしれません。現在行われている国会での議論でも、そのような発言をする質問者がいます。しかし、政権が高等教育の問題に大きく係ることが危険であることは、教育へのその介入が顕著になっている現状を見るとき明らかです。大学教育に限っても、文科省の介入が顕著になりました。まず教授会の権限が縮小され、大学学長の権限が大幅に拡大されました。また大学への予算の配分は、文科省の意向に沿った大学改革を進める大学が優遇されるようになりました。大学の評価に成果主義が導入され、結果を出すのに時間のかかる研究が不利になりました。その時々の政権の方針に追随する文科省の打ち出す教育政策に、今や心ある多くの人々が危機感を持っています。教育の問題を政権主導にすることは非常に危険なのです。

(注)この法律でさえ、安倍政権はばらまきだ、金の無駄だと批判して、所得制限をつけることにし、高校教育の無償化を後退させています。