Archive for 8月 16th, 2017

大学入試改革という議論の中から、大学入試センター試験の一部(実施が困難な英語)を民間試験に移行するという考え方が生まれ、文科省はそうすることに決めたわけです。しかし先に検討したように、それは良い結果を生むどころか、むしろ、より複雑な新たな問題を生む危険性が高いことが分かりました。なぜこのような混乱が起こってしまったのか。おそらく、これまでの大学入試改革の議論のどこかで、何かが間違ってしまったものと考えられます。もしそうだとすれば、その「何か」をここで突き止めたいと思います。

大学入試センターが入試改革についての議論で定めた方針は次の2点でした。①国語と数学に記述式問題を導入する、及び②英語をセンター試験から外して「読む・聞く・話す・書く」の4技能テストを含む民間試験に移行する、の2点です。英語をセンター試験から外す理由は、従来のマークシート方式のセンター試験では「読む」と「聞く」しか測れないからだとされています。「話すこと」と「書くこと」のテストを課した場合には、センター試験ではその採点処理を短期間に行うことが不可能なのです。

しかしここで疑問が起こります。国語や数学では記述式問題を導入できるのに、なぜ英語はそれができないのか、ということです。なるほど国語や数学の試験では「話すこと」のテストは行いませんが、「書くこと」に関しては、工夫をすれば英語でもその一部の技能を測ることができるはずです。なぜ文科省や大学入試センターは、英語に関してのみ「話すこと」にこだわるのでしょうか。英語を「話すこと」がそんなに大切ならば、各大学の2次試験で実施すればよいのではないでしょうか。なぜセンター試験に「話すこと」が必須であると、文科省や入試センターの人々は考えたでしょうか。

その最大の理由は、この議論に加わった人々が、英語科は他の教科とは違って、「話す」という活動を教科の中心的な活動であると見なしていたからだと思われます。そうでなければ「話すこと」にそれほどこだわる理由は見当たりません。極端に言うと、文科省と入試センターの方々は、英語から「話すこと」を除外しては、英語テストは成り立たないと考えていたということです。そういう人々が過半数を占めたのかどうかは知りませんが、少なくとも、そういう考えが入試改革に関する議論の席では支配的だったということです。しかし筆者はその考えに疑問を持ちます。それが英語教育関係者の意見を代表する考えとは思えないからです。少なくとも、そのことに疑問を持つ人がかなりいたと思われます。しかしそういう人も、入試改革の公の議論の場では、文科省が出している教育方針に異議を申し立てることを躊躇したのです。

文科省が学校教育において「英語を話すこと」の指導にこだわっていることは、今年3月に発表された新学習指導要領を読むと分かります。そこには英語科における「話すこと」の活動が異常に強調されています。「異常」と言うのは大げさかもしれませんが、少なくとも尋常ではありません。以下にその点を中心に論を展開し、そのことが今回の入試改革問題を混乱させている原因の一つになっていることを指摘したいと考えます。

従来(第2次大戦後から前回の改訂まで)、中・高の学習指導要領は一貫して「聞くこと」「話すこと」「読むこと」「書くこと」の4技能の育成を目指すという目標を掲げてきました。ところが今回の改訂において、「話すこと」の目標が、①「話すこと[やり取り]」、②「話すこと[発表]」の2つの領域に分割されています(注1)。しかしこれら2つの領域の目標を読み比べると、そこには字句の違いが若干あるものの、内容的にはほとんど同じです。その違いは「話すこと」の場面が違うというだけです。つまり、誰かと対話を交わす場面か、自分ひとりで話す場面かの違いです。そこには本質的な違いはありません。それなのに、何のためにこのような大げさな変更がなされたのでしょうか。よく考えてみると、それは文科省が2002年に打ち出した「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」を実現しようとしているためだと考えられます。文科省の官僚は時の政権の意向に従順なのです。

では、「話すこと」の目標を2つに分割するという考え方はどこから出てきたのでしょうか。調べてみると、それはCEFR(セフアール:ヨーロッパ共通参照枠)の枠組みによっていることが分かります。つまり、今回公示された新学習指導要領(外国語)は、このCEFRの基準枠にしたがって作成されているのです(注2)。それとともに、数年後に行われる大学入試もこの新しく改訂された学習指導要領の目標に合わせようというのです。そこで、「話すこと」のテストをぜひ大学入試に導入したいという文科省の強い意向があり、この問題を議論した大学入試センターもその意向を受け入れざるを得なかったということなのです。入試センター試験から英語を外すと決定した裏にはこういう背景があったのです。

ところで、CEFRは日本の英語教育に当てはまるのでしょうか。それを小・中学校の英語科の目標に適用するのは適切な判断だったのでしょうか。筆者はそれを間違った判断とまでは言いませんが、適切な判断ではなかったと考えています。その理由を以下に述べます。

まずEUと日本との英語習得環境の違いを考えてみます。ヨーロッパに行ったことのある人ならば、そこが多民族の居住するオープンな空間であることに気づいたでしょう。筆者の乏しい経験ですべてがそうであると断定することはできませんが、そこは日常的に多言語の飛び交う空間であることは確かです。少なくともヨーロッパの主要都市では、どこに行っても英語を話して不自由を感じることはありませんでした(注3)。話しかけた人が英語を知らないことはありましたが、根気よく探せば必ず英語を使える人を見つけることができました。この点でEUの英語学習環境は日本のそれと大きく違います。ヨーロッパの人々は幼い頃から多民族と交わり、多言語の使用に慣れているのです。したがって、CEFRの評価基準は日本人にはかなり高いレベルの英語力を目指しています。英検3級や2級というレベルではありません。

そういうわけで、英語学習の基礎段階にあたる小・中学生にEUの基準が当てはならないのは明白です。使用レベルが格段に違うのです。日本でも、上智大学など、英語エリートを養成するコースの学生を鍛えるためにCEFRの設定した基準を適用して効果を挙げている大学があります。高校レベルでもいくつかの実験校がそれを利用して実践研究を行っています。それはそれで納得できます。しかし、それを日本人の基礎教育である小・中学校において、官僚主導の学習指導要領によって全国一斉に実践を強要するということには異議をとなえざるをえません。それは異なる言語的・文化的背景から生み出された仮説的実践計画に基づくもので、日本人がこれまで積み重ねてきた経験的事実を無視しているからです。

(注1)今年改訂された中学校学習指導要領では、英語の「話すこと」の目標は次のようになっています(小学校の目標も基本的に同じ)。

*話すこと[やり取り]「ア 関心のある事柄について、簡単な語句や文を用いて即興で伝え合うことができるようにする。イ 日常的な話題について、事実や自分の考え、気持ちなどを整理し、簡単な語句や文を用いて伝えたり、相手からの質問に答えたりすることができるようにする。ウ 社会的な話題に関して聞いたり読んだりしたことについて、考えたことや感じたこと、その理由などを、簡単な語句や文を用いて述べ合うことができるようにする。」

*話すこと[発表]「ア 関心のある事柄について、簡単な語句や文を用いて即興で話すことができるようにする。イ 日常的な話題について、事実や自分の考え、気持ちなどを整理し、簡単な語句や文を用いてまとまりのある内容を話すことができる。ウ 社会的な話題に関してきたり読んだりしたことについて、考えたことや感じたこと、その理由などを、簡単な語句や文を用いて話すことができるようにする。」

(注2)CEFRはCommon European Framework of References for Languagesの略で、EU各国の言語学習指導カリキュラム・シラバスの作成、教材の編集、外国語運用能力の評価のための枠組みを提供するものとして、20年以上の研究・検討を経て、2001年に欧州評議会から発表されたものです。CEFRやそこで開発されたCAN-DOリストは日本の英語教育にも参考になりますが、それが有効に利用されるためには、各学校の教師たちが、それらに対する理解を深めたうえで、自分たちの学校の実情に応じて、卒業までに何ができるようになるかという大きな枠組みから学習目標を設定することが重要です。文科省が一律に基準を示すことによって効果があがるとは考えられません。

(注3)筆者がアムステルダムで観光バスに乗ったときには、ガイドは5ヶ国語(オランダ語のほかに、ドイツ語、英語、フランス語、イタリア語)を使い分けました。パリの観光バスのガイドは3ヶ国語(フランス語、英語、スペイン語)のほかに日本語も使いました。彼女に日本語で話しかけて、本当に日本語が流暢に使えることを確認しました。観光バスのガイドには外国語習得に熱心な人が多いのでしょうが、街を行く住民に英語で話しかけても、多くの人が英語で応答してくれました。EU諸国における国境の言語的な壁は、日本にいて想像していた以上に低いと感じました。