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< NHK-10 組合活動

Author: 松山 薫

< NHK−10 組合活動 >

 NHKの労働組合(日本放送労働組合=日放労)は1950年のレッドバージの後に結成されたいわゆる第2組合で、私がNHKに入った当時は、御用組合に近く、政経部の分会などは公然とスト破りの動きを見せていた。これを一変させたのが社会部記者から日放労委員長になった上田哲だった。憲法護持とNHKの政治的中立を旗印に、経済闘争では、巧みな弁舌で民放各社と格段の差がある“薄給協会”の組合員のみならず下級管理職にも支持を拡げ、数年で組合の体質を変えて、日放労はNHKの経営にも大きな影響を与える存在になっていった。

 彼がまだ組織部長・副委員長の頃、私は日放労本部で何回か意見を交わし、彼の熱意に共鳴してともに組合を変えていくことを誓った。彼が私と同年代でNHKに入る前に高校の英語教師をしていたことにも親しみを覚えた。
 
 やがて私は放送系列の執行委員になった。放送系列というのは、東京在勤の記者、プロデューサー、ディレクター、アナウンサー、カメラマンおよそ千人を束ねる日放労の支部で、各部局の代表である10人ほどが執行部を構成していた。交渉の相手はNHKの中核である放送総局であり、団体交渉では、公共放送のあり方をめぐって激しく、時には夜を徹して渡り合った。その中で私の”暗い予感“が杞憂でないことを数々の事例から確信するに至った。                  
 
 その象徴的な出来事が、田中角栄の腹心である小野吉郎郵政事務次官がNHKに天下った事例である。その時日放労は、これを阻止することが出来ず、1976年(昭和51年)の夏、ロッキード事件で有罪判決を受け保釈中の田中角栄を、会長になっていた小野が見舞うという公共放送としてはあってはならない事件が起きた。日放労は直ちに小野会長の辞任を求める全国100万人署名運動を展開し、ついに、この郵政官僚を辞任に追い込んだ。そのあたりが日放労の最盛期であったろう。上田委員長が現職のまま社会党の国会議員になったあたりから、おかしくなっていったと思う。NHKへの言論介入を強める自民党の長年の一党支配体制に対抗するためには、野党第一党の社会党を強化するしか方法がないという論理は分かるにしても、それが現職委員長のまま議員になる理由にはならないし、ましてその政治的影響力をNHKの経営に介入するために使ったのでは、自家撞着になる。
 
 数年の後、私は日放労全国大会で、上田委員長と、労働組合のあり方をめぐって正面衝突した。上田親衛隊はもとりより、共産党系の代議員からも罵声が飛び、わずかに傍聴席の同志達が私の主張を支持したが、怒号の中でかき消された。こうして、私は日放労の中でも孤立することになっていった。

 私の組合活動を最後まで支えてくれたのは、アジア部の若いディレクター達だった。彼らは入局して数年経つと、インドネシア、ビルマ、ベトナムなど、それぞれの専攻語学を母国語とする国へ研修に派遣され、かつて列強の植民地であり、その後日本の占領下にあったそれらの国の人達と接して、生き方の根源に触れる体験をしたのだろう。自分の力不足から、彼等の真摯な要求に真正面から応えることの出来なかったことが心残りだった。
一方で、上田哲も、やがて、権力に溺れ、スキャンダルにまみれて影響力を失っていった。

 職制側からは早く管理職になれという攻勢が激しくなった。だが、ロッキード事件での協会側の情けない対応を見るにつけ、末端管理職になってこの組織に埋没する気はとうになくなっていた。二度とない人生、一度は自分の意志で仕事をしたいというずっと胸の底にあった埋み火が次第に燃え上がり、NHKを辞めて、もう一度やり直すことに腹を決めた。(M)