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英語との付き合い ○26

< 新しい仕事への挑戦−1 >

 NHKを退職すると決めたのは40代の半ばだったが、実際にやめたのは、妻子と老父を抱え何とか食っていけるメドがついた52歳の時だった。辞表を出し、二度と通ることのないNHKの西口玄関を出て、渋谷駅の方へ歩いていると、向こうからABC放送のベテランアナウンサー、グラハム・ウェブスターさんがやってきた。彼には、退職後もいろいろお世話になるからということで、前もって近くNHKを辞めると伝えてあったので、“ I’ve just quit NHK. “と話しかけると、”Happy retirement ! ” と笑いながら手を差し伸べてきた。happyになるか、unhappyになるか、一抹の不安を感じる一方、これからは自分の意志で生きられるという大きな解放感を味わいながら、駅前のビアホールで人生最後の夢への新たなる挑戦へ向けて乾杯した。

 我が家はわり合い長命な家系らしいので、漠然とあと30年くらいは生きられるだろうと考えていた。その残りの人生でやりたい仕事とやらねばならない仕事があった。それらは、苦労して身につけた英語を”使い倒す“ことを基盤としており、両者は、成功すれば必然的に結びつくはずのものであった。

 やりたい仕事は、20代の終わりに1年足らずではあったが携わった貿易業だった。貿易は面白いかもと気づいたキッカケは、「あんたのところは、一体何を入れたんだ!説明に来い!」という横浜税関のお役人の怒鳴り声だった。前にこのブログにも書いたが、スイスの会社へのorderを私が間違えたため、何に使うのか分からないpunching machineが10台、保税上屋に積み上げられていた。実はこれはノートの右端に一列に穴を開ける機械で、この穴に螺旋を通すspiral deviceとセットで5台ずつ注文したつもりが、穴あけ機だけ10台来たのだから、税関がとまどったのも無理はない。しかも、当時このようなノートは日本にはなかったので、税関の役人を納得させるのに汗をかいた。しかし、この時、貿易は”独創性“がkey wordだと気づいたのである。この方式のノートはその後一時ブームになり、今ではどこでも売っている。

 ところで、私がいつか貿易業に取り組もうと本気で考えたのはずっと後のことで、キッカケは東京オリンピックだった。多くの外国人に話を聞き、意見を交わすうちに、英語を身につけてよかったと思うとともに、自分の夢を実現するための武器としてこれを使わない手はないと思い立った。私の夢は、戦争の根絶であり、そのためには国際連合の強化と日本国憲法の理念を実現することが必要だと考えている。その第一歩として、貿易を通じて世界の人々と交わり、できるだけ多くの知己を作って、まずはUNESCO憲章*への共鳴者を増やすよう努力したいと思ったのである。思えば、これは、国際放送の理念と重なるもので、長年培ってきた国際情勢の知識と分析それに国際理解のknow-howを存分に生かせる道でもあった。

 問題は独創性と有用性のある輸出入品を見抜く眼と資金だったが、それは60歳までに創りあげるつもりであった。当分は、準備活動として外国の新聞や雑誌、大使館などにある資料を読みあさり、commercial attachéからの情報収集にあたりたいと考えていた。貿易商社に勤めていた頃とは時代が変わっていたし、資金が不足なので、最初は雑貨類の輸入から始めことにして、横浜の知人には、家を改築する時に商品の展示室を作ってもらった。また海外へ行く友人・知人には何か面白い情報はないか気をつけてみてきて欲しいと依頼した。昔の生徒で雑貨卸売商として成功していた人物がいたので、その販売ルートに乗せる計画であった。

 しかしこの計画は挫折した。数年あれば最低2倍にはしてみせるという証券会社の口車に乗って預けた虎の子の資金が、バブルの崩壊もあって、アッという間に、半分以下になってしまったのである。このカネはもうひとつの仕事の資金にとっておかねばならなかったので、貿易業の方はあきらめざるをえなくなってしまった。「人間万事塞翁が馬」だと思えばあきらめもついたが、もう少し若ければとそれだけが悔やまれた。(M)

*「UNESCO憲章前文」
 戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かねばならない。相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて、世界の諸人民の間に疑惑と不信を起こした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば、戦争になった。・・・平和は失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かれなければならない。