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自分の教え方を変えようとしない高校教師は、筆者の察するところ、自分が変わっても高校の教育はそう簡単には変わらない、という気持ちがあるのではないでしょうか。自分が投票しても日本の政治は変わらないと言って選挙を棄権するのに似ています。それは言うまでもなく、選挙民としての義務の放棄であり、責任の回避です。教師が自分の授業のやり方を変えるのは確かに大変な努力を必要とします。自分の教わったように教えるのがいちばん楽です。しかし、自分ひとりの努力で高校の教育がどうなるわけではないと考えて何もしないのは、教師としての義務の放棄であり、責任の回避にほかなりません。

 確かに、学校を出たらすぐに役立つ英語を教えてほしいという要求には理不尽なものがあります。第1に、生徒たちが将来必要とする英語力は多様であり、限られた学校カリキュラムの範囲でそれらの要求のすべてに応えることは理論的に不可能です。しかも、英語は日本においては完全な外国語です。20世紀の後半までは、一般の日本人が日常的に英語を使用する状況はほとんどありませんでした。英語の教師ですら、授業以外に英語を使うことはそう多くはありませんでした。そういうわけで、世の人々の、ネイティブ・スピーカーと同じように英語を使えるようになりたいなどという夢は、真剣に取り上げる価値もありませんでした。

 しかし世紀の変わり目に、この状況は急激に変化しました。インターネットの普及とグローバルな通信手段の拡大によって、英語による情報の授受は日常的なものになっています。これからの世界で生きて行こうとする若者たちは、英語を知らなくてはどうしようもないという事態に遭遇するでしょう。特に知的な仕事に就く人たちはそうです。彼らの多くが必要とするであろう英語力の中には、印刷物やインターネットで得られる情報をすばやく理解する能力と、自分の発信したいアイディアや想いを、音声によるプレゼンテーションや論文・エッセイの形で、きちんとした英語で表現する能力が含まれます。高校の英語授業でそのような能力の基礎を身につけさせることは、今や高校英語教育の主要な目標となっています。テキストを読んで何とか訳せればよいという時代はもはや過去のものになっているのです。

 先日の新聞で作家・高橋源一郎氏の「論壇時評」(『朝日新聞』10月25日)を読みました。大震災で大きな被害を受けた岩手県宮古市の漁業協同組合は、右往左往している行政に頼ることなく、残された船を漁協で協同管理することによって、自分たちの力でどこよりも早く復興の狼煙をあげることができたといいます。そこには「自分たちの権利を守るために人任せにせずに責任を負う」という自治の基本的な理念が、自分たちの海を守ろうという漁民たちに共有されていたというのです。高校の英語教師たちも、日本の英語教育をどうしたらよいのかを、文科省や地方教育委員会の行政に頼るのではなく、各自の英語の授業の中でそれを実現する努力していただきたい。英語を教えるという自分たちの権利を守るために、その仕事は自分たちで責任を負うという気概を示していただきたいのです。

 これからの世界を生きる日本の若者たちが必要とする英語力は、簡潔に言うと、英語情報を正しくすばやく理解すること、および自分の考えなどを適確に表現する能力です。教師の仕事はこの二つの能力の基礎を生徒にしっかりつけてあげることです。そしてその二つの能力は、教育の仕方によっては、一方だけが発達し他方が未発達のままに終わってしまう。つまり、辞書があれば与えられた英文を何とか理解できても、自分では何も言えない、書けないということになります。このことは日本のこれまでの英語教育の経験から明らかであり、教育方法に問題があったことを示しています。

 では、高校の英語授業をどのように変えたら現状から抜け出すことができるでしょうか。そしてすべての教師にできることがあるのでしょうか。すでにそのような実践研究は始まっています。最近、東京学芸大学・金谷教授らの研究会が『高校英語授業を変える』(アルク2011)を出版して成果を問うています。私たちもそれをも参考にしながら、文法訳読式で教えている先生方と共に、生徒に理解力と同時に発表力をも身につけさせる授業とはどういうものかを考えてみたいと思います。公開授業などに華々しく登場する高校生のパネルディスカッションやディベートは見栄えがしますが、それだけが高校英語の目指すものではありません。もっと地味で日常的な授業活動が大切です。(To be continued.)