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テキストの内容を手っ取り早く理解させるには全文訳をプリントして生徒に配布するのがいちばん簡便です。たいていの検定教科書には教師用の指導マニュアルが付いていて、そこに全文訳が載っています。筆者も以前、何種類もの高校用教科書の作成に関わりましたので、いくつかの夏休みを指導マニュアルの原稿を書くことに費やしました。それを書きながら考えたことがあります。このような全文訳は、おそらく指導する先生方は必要としないだろう、必要とするのは生徒ではなかろうか、と。いっそ教科書に全文訳を載せてはどうだろうか、そうすれば授業で訳す手間が省けて、その時間を他のもっとアクティブな言語活動に当てることができるのに、と考えたものです。

 実際に、検定教科書以外の学習書の多くは訳を載せています。検定教科書だけがどうして訳を載せないのでしょうか。その答えは簡単です。教科書作成に関わる出版編集部はそろって言います。「そういう教科書は売れない!」と。たしかに、教科書に全文訳を載せることには教師の側から常に強い反対意見が出るようです。高校の英語科では、受験指導のベテランと言われる主任級の教師たちが猛反対をします。英文と並べて訳を出すのはもちろん、それを巻末の付録として出すのも駄目だと言います。反対の主たる論点は、訳をすることが英語学習の主要目的の一つであるから、それを教科書に載せるのは間違っているというのです。その人たちの言い分では、英文の内容理解は和訳をしてはじめて可能になるのであり、大学入試問題の英文和訳の問題は言うに及ばず、その他の長文読解の設問についても、全文訳ができてはじめて解答が可能になるのだ、というわけです。

 このように言われると、若い教師は反論するだけの勇気も理論的根拠も欠いているので、黙るほかないでしょう。しかし、上の理屈は本当に根拠があるのでしょうか。以前に「英語学習と訳」の項目で述べましたが、たしかに和訳をして、英語と日本語を引き比べてじっくりと考えて、はじめて理解できるような英文があることは事実です。しかし熟考しないと分からない文章というのは、英語だけでなく日本語にもあります。そもそも文章を読んで理解するというのは、読者がその文章の作者と共通の理解に達することですから、作者の前提としている知識を読者が共有するまでは完全な理解に達することはないのです。しかし教科書に載っているテキストのすべてがそういう難解な文章であるわけではありません。高校生の経験に密着したトピックならば、理解の前提となる作者の知識を生徒たちもある程度共有しているはずです。そういう文章ならば、全部訳さなくても、大部分を英文のまま理解できるのではないでしょうか。理解しにくい箇所だけを日本語にしてみれば足りるはずです。高校の検定教科書をいくつか作成した筆者の経験から、高校の英語テキストにはそういうレッスンもかなりあると思います。

 そうだとすれば、教科書に載るすべてのテキストを訳す必要はないし、全文訳を生徒に配布する必要もないことになります。しかしそれはあくまで机の上の議論であって、実際には、教室にはいろいろな種類の生徒がいます。学力的にも差がありますし、所有している知識もいろいろです。学習法もそれぞれ異なりますし、そもそも学習の目的も違っています。そういういろいろな生徒が混在するクラス環境においては、このテキストに関して生徒は全文訳を必要とするだろうとか、あるいは必要としないだろうとかを、教師が一方的に決めることはできません。それぞれのテキストについて、訳を必要とする生徒と必要としない生徒が混在することを、教師は常に考慮しなくてはなりません。比較的に易しいテキストなので授業で訳をする必要はないが、訳がなくては読めないという生徒のために、全文訳を用意することも考慮することになります。

 しかしそのようなきめ細かな指導をするには、学年教科を一人の教師が担当する場合には可能でも、複数の教師で担当する場合には難しくなります。その場合には担当教師たちが話し合って、同一学年についてほぼ統一した指導システムを作成する努力が必要になります。聞くところによると、高校教師には個性的な人が多く、意見の統一が往々にして困難だといいます。そこでベテラン教師の一声で、「全文訳の配布はいかなる形においても不可」というのが訓令となって流布することになります。その訓令を打ち破る切り札は、「期末考査において、教科書のテキストを原文のまま和訳問題として使わないこと」という新たな訓令を発令してもらうことです。そしてそのことを生徒にも通達します。そうすれば、生徒がいわゆる「訳の奴隷」になることなく、訳をするのはテキストの内容理解のための一手段であって、訳された日本語に価値があるのではないことを彼らは認識するはずです。(To be continued.)