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クラスサイズの問題は古くから英語教育の大問題として議論されています。高校の英語教師が訳読式授業にこだわる原因も、おそらくクラスサイズにあると思われます。高校の学級定員は、「高等学校設置基準」により40人以下とすることになっています。実際には、公立・私立を問わず、どこも定員いっぱいの生徒を入学させます。そこで40人という大クラスで教えるのに最も効率的なのが、訳読を中心とした講義スタイルの授業だというわけです。これならば、教師が中心になって訳をしたり、文法を解説したりすることができますから、生徒が多少多くても困らないというのです。確かに、生徒を惹きつけるだけの魅力を持っている教師ならば、あるていど可能かもしれません。事実、名物教師と言われる人にはそういう授業を得意としている人がいます。生徒にやる気さえあれば人数なんか問題ではない、たとえ100人を相手にした授業でも、一人ひとりの心に届く指導が可能だと豪語します。

 しかし本当にそうでしょうか。それは一定の基礎学力を備えた生徒たちを対象とした大学受験指導のような、限られた範囲の英語指導の場合には言えるかもしれませんが、一般の高校教育に広く当てはまることではないでしょう。40人ものクラスでは、現実に、さまざまな問題が起こります。第1に、生徒の学習意欲や学習能力の多様性の問題があります。学習意欲の乏しい生徒がいれば、やる気を起こさせる指導をする必要があります。また学習意欲があっても、個々の生徒の学習目的は異なっており、学力・能力も多様です。彼らの個性や能力は一人ひとり違うからです。たとえ大学受験ということでは一致していても、それだけが高校英語教育の唯一の目的とは言えません。予備校の授業は大学受験のための学習ということで一致しているのでしょうが、一般の高校ではそうはいきません。生徒の多くも予備校と同じ授業を期待してはいないでしょう。一人ひとりの心に届く指導をするためには、教師はそれぞれの生徒の特徴をよく知る必要があります。

 第2に、大クラスに特有の講義スタイルという授業そのものに問題があります。言うまでもなく、高校の英語は決して知識を伝達するための教科ではありません。知識の伝達は指導のほんの一部です。それよりも、英語そのものの使用経験を積ませることのほうがずっと重要です。教師の一方的な講義では、生徒の英文理解力はあるていど向上するかもしれませんが、理解した英語を実際に使う経験が不足しますから、私たちの言うところの「発表力」(または「プレゼンテーション能力」)を養うことはできません。最近の大学入試も、まだ十分とは言えませんが、そのような発表力を含める問題に改良されつつあります。そしてその指導は大学での英語教育にも受け継がれるはずのものです。

 それにしても、英語の授業に40人というクラスサイズは教師が個々の生徒を理解するには大きすぎます。また、生徒全員に発表活動を経験させることも、非常に難しくなります。それは国際的に見ても異常なクラスサイズです。「日本外国語教育改善協議会」という名の集会が1972年以来活動を続けていますが、そこでは英語のクラスサイズについて、「外国語の授業を行う場合、1クラスの生徒数の上限を15名とし、外国語教員の増員を含め、必要な措置を講ずること」という意見と要望をまとめてアピールしています(「小学校、中学校及び高等学校の学習指導要領の実施等に関する意見」『英語教育』2011年10月号、大修館書店)。しかしクラスサイズの問題は、残念ながら、近い将来に正常化される見込みは皆無です。今行われている選挙運動でも、筆者の知るところ、学校におけるクラスサイズの問題に触れている候補者はいません。

 英語教師の多くは、15人のクラスならば今よりもはるかに良い指導ができるだろう、せめて現在の半分の20人にしてほしいものだ、と考えていると思います。本当にそう考えているならば、それを実現する努力をすべきではないでしょうか。実際にそれを実現している学校があることを筆者は知っています。もちろん、一人の教師では実現できません。実現可能なプランを立て、英語科の教師たちを説得し、校長を説得し、他の教師たちをも説得しなければなりません。それにはさまざまな障碍があるでしょうが、大義名分があれば不可能ではないと思います。たとえば40人のクラスを英語の時間だけ半分にして、二人の教師で分担するという方法があります。そしてそれを提案する前に、40人のクラスで発表活動を可能な限り拡大する工夫をすることが重要です。そのうえで、もし半分の20人ならば、さらにこれだけのことが可能になると主張するのです。従来の訳読法だけに頼っていてクラスを半分にしてくれと言っても、誰も耳を傾けてはくれないでしょう。(To be continued.)