Print This Post Print This Post

教師による文法訳読を中心とした授業から、生徒による発表活動を中心とした授業への転換は必ずしも容易ではありません。しかし、これからの世界を生きていく若者たちにとって英語がコミュニケーションの手段としてますます必要なものになるだろう、そして英語に習熟することは彼らの死活問題となるかもしれないという認識は、しだいに多くの教師たちに共有されつつあると思われます。そこで、授業でできるだけ多くの生徒に発言または発表の機会を与えると共に、日常の授業をもっと活性化する必要があります。

 筆者はこれまで語研の研究大会(一般財団法人・語学教育研究所研究大会)で優れた教師たちによる多くの公開授業を見てきました。それらはすべて技術的に優れた授業でした。教師はできるだけ多くの英語を話すことによってインプット量を増やし、small talkのような、生徒との英語によるinteractionを工夫していました。また、テキストの効率的な理解と、それに基づくretellingなどの発表のさせ方を考案していました。教師は良い発音で良い英語を話し、生徒にも良い英語を話させようと努めていました。生徒たちも教師の指導によく従っていて、見ていて気持ちのよい授業でした。

 しかし一方では、筆者はそういう授業を見ていて、参観者の目が教師にだけ注がれていて、生徒が何をしているか、またそこに至るまでに何をしてきたかを見逃しているのではないかと心配しました。授業の流れはスムーズで、教師が適切な設問をし、生徒がそれに見事に答える、というような表面的な事柄だけが注目されて、「あんな授業は自分にはできそうもないな」というような感想を抱いて帰ることにならなければよいが、と思ったものです。

 言うまでもなく、授業は教師のためのものではありません。生徒が学習するためのものです。生徒がたくさんのことを学習するためには、授業中に行なっているいろいろな活動が、彼らにとってチャレンジするだけの価値のあるものでなければなりません。公開授業ではどうしても参観者の目が教師のすることに注がれますので、教師がそれを意識するのは避けられないでしょうが、ふだんの授業では教師が生徒のしていることをしっかり見ていることが重要です。学習は個々の生徒の内面で起こるものです。ですから、本来の授業はもっと地味で、他人には見せたくないような泥臭いものかもしれません。公開で行なわれるような見栄えのする授業も、実はそういうふだんの地味な授業が積み重なって成り立っています。ですから授業の参観者も、単に教師が何をするかだけではなく、その授業を成り立たせている生徒の内面的な活動にもっと注目すべきなのです。

 授業中に生徒を学習に専念させるためには、彼らを常にチャレンジングな活動に追い込む必要があります。エアコンのついた部屋で先生の話に気持ちよく耳を傾け、時々先生の発する平易な問いにYesや Noなどと答えているだけでは、真に必要な学習は起こりません。授業を決まったルーティーンの上を走らせるのではなく、眠気を吹き飛ばすような大胆なタスクに挑戦させることで、生徒のチャレンジ精神を活性化するのです。たとえば、ただ英語のテキストを漫然と聴かせるのではなく、あらかじめ聴くべきポイントをいくつか示して、それらに集中して聴かせる工夫をしてはどうでしょうか。あるいは、テキストの内容が理解できた段階で、その内容について自分の感想や意見をまとめるというような活動も、生徒にとって非常にチャレンジングなタスクになるでしょう。そうするためには、しばらく思索のための沈黙を必要とするかもしれません。その間クラスは一瞬戸惑い、停滞しているかに見えるでしょう。話し出す前に、頭に浮かんだものを各自のノートに書いてみる必要があるかもしれません。そのような活動は公開授業では取り上げにくいものですが、意味のある活動です。

 実際に、現実の言語使用ではじっくりと考えなければなられない場面がしばしば起こります。「今度の国政選挙で自民党が大勝しましたがその原因は何だと思いますか」というような世論調査が行われています。回答者はきちんと考えて答えているのでしょうか? このような世論調査の方法と結果にはいつも疑問を感じます。この問いに選択肢で答えるのは容易でしょうが、論理的に筋道たてて述べるのは簡単ではありません。英語の授業でも、自分の考えをまとめてそれを表現するというのは容易ではありません。授業はスムーズに展開しないかもしれません。しかし高校生にとっては、それは取り組む価値のある魅力的なタスクではないでしょうか。(今年の投稿はこれで終わります。皆さんどうぞ良い新年をお迎えください。)