Print This Post Print This Post

前回は、胎内にいる赤ちゃんが、お母さんの話す言葉を聞いてその音の変化に気づき、いろいろな音の区別をすでに学び始めていると書きました。また、筆者が中学生になって初めて英語に接したとき、それは日本語とは違って、音を構成する単位が母音と子音の単音であり、それらがおおむねアルファベットの文字と対応していることに気づいたと話しました。先生はそのことを正確には説明されませんでしたが(もし丁寧に説明されたら生徒はチンプンカンプンで、みな英語が嫌いになっていたでしょう)、先生の挙げるいろいろな例から、そのことに気づかされました。そういうふうに、私たちの言葉の学習は「気づき」から始まることを理解していただけたと思います。

 ところで「気づき」はすべての人に与えられている基本的な特性ですが、それはもちろん、学習の初歩的なステップだけで発揮されるのではありません。そもそも人の一生は学習の連続です。よりよく生きて行くためには、人は常に学習する必要があります。もちろん、すべての生物にはDNAに刻印された基本的な設計図が与えられています。人もそうです。しかしそれだけでは人は生きていけません。生まれてきた赤ちゃんは、面倒を見てくれる母親がそばにいてくれれば、しばらくは生きていけるでしょう。しかし、たぶんあまり長くは生きられないでしょう。この世に生まれてきた者はすべて、その複雑な環境に対処するために、常に多くの学習を要求されるからです。生きていくことは学習することなのです。筆者は老人になって知りました。歳をとればとるほど、学ぶべきことが増えるということを。なぜそうなるかというと、歳をとると、人は気づきのアンテナを増し、これまで気づかなかったことに気づくようになるからです。

 先日の新聞で「気づき」という言葉が使われている好い例に出合いました。ご存じのように、日本の女子柔道選手15名が、監督らの暴力やパワーハラスメント行為をJOCに告発しました。そのことに関して、山口香氏(84年柔道世界選手権優勝者・88年ソウル五輪銅メダリスト・現在、筑波大学大学院準教授)がインタービューの形で意見を述べています。以下の引用はその一部です。

「彼女たちの行動には賛否両論あると思いますが、彼女たち自身が起こしたものであるとはっきり言いたい。声明文にもあるように、彼女たちは気づいたんです。何のために柔道をやり、何のために五輪を目指すのか。『気づき』です。監督に言われ、やらされて、ということでいいのか。それは違うと。」(2月7日付『朝日新聞』朝刊)

 ここに「気づき」という言葉が実に適切に使われています。そしてこのようなコンテクストでそれが使われていることに、筆者は感動をおぼえました。15人の女子選手たちは、その声明文にあるように、「監督の存在におびえながら試合や練習をする自分の存在に気づいた」のです。選手たちはそれぞれ、自分が勝つためには、そのような体罰や暴力に耐えていかなければならない、その苦しさはメダルを取るために自分に課せられた苦行なのだと、自分自身を説得していたのでしょう。しかしある時ふと気がついたのです。いったい自分は何のために柔道をやっているのか、人間としての尊厳を傷つけられながらメダルを狙うことにどんな意味があるのか、と。そのことに最初に気がついた人が、仲間の誰かにそれを語ったに違いありません。そうして15人の選手たちが同志となったのでしょう。全日本柔道連盟という伝統ある強固な組織を動かすことは一人や二人ではできません。15人でも少ないかもしれません。しかし彼女たちは立ち上りました。現代社会では人々へのアピール力が成否を左右します。筆者はこの選手たちの成功を祈って、今後の動向を注視しています。

 このように「気づき」は、自己の人生の意味を問うというような、重大な決定に関わる問題にも大きな役割を演じます。もし誰かに訪れた最初の「気づき」がなかったならば、これら15人の選手たちには何も起こらなかったでしょう。暴力はずっと前からありました。しかし選手たちは、その暴力が自分たちの柔道家としての自立を妨げていることには気づきませんでした。彼女たちはしばしば、そのことについて疑問に感じてはいたでしょう。しかし気づかなかったのです。学びと決断と行動は「気づき」に始まりました。

 話が英語学習の問題から逸れましたが、私たちは「気づき」が私たちの学習の(そして人生の)様々なレベルで起こることを知りました。では、「気づきは」どういう時に訪れるのでしょうか。また、気づきはすぐに行動として現れるのでしょうか。こういうことについて考えてみたいと思います。(To be continued.)