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「気づき」はすべての学習の中核「をなすものなので、先に挙げた女子柔道選手たちのような例は、いくらでも挙げることができます。そういう具体例をジャンルごとに集めて、「気づき」に関する全集や選集をつくることも可能です。きっと面白くて為になる読み物になるでしょう。読者の皆さんの中でこの企画を面白いと思われる方は、ぜひおすすめください。

 さてここで、歴史的に最もよく知られていると思われる「気づき」の例を一つだけ挙げます。非常に有名なので、多くの方はすでにご存じのことと思います。それは新約聖書の使徒書に記録されている使徒パウロ(またはサウロ、サウル)の回心の話です。多くのキリスト教徒は、この逸話を実際に起こった神秘的・奇跡的な出来事として理解しているようです。しかし筆者は、これをパウロの「気づき」の話として読みたいと思います。そしてここに語られているのは、パウロ個人に特殊的に起こった歴史的出来事と言うよりも、私たち誰にでも起こり得る衝撃的な「気づき」の経験であると考えます。その経験を、福音記者であるルカは、文学的な手法を使って見事に語っています。その部分だけを引用します。

 「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸教会あての手紙を求めた。それはこの道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。」(使徒言行録9章1—9節)<新共同訳による>

 使徒書のこの部分については、多くの神学者や説教者が解説を書いていますので、詳しい説明はそれらに譲ります。キリスト教徒でなくても、この文章のコンテクストを知れば、何が起こったのかは容易に理解できるでしょう。サウロ(のちの使徒パウロ)はこの出来事をきっかけに、イエスを信じる者たちの迫害者から、イエスをキリスト(救い主)として信じる信仰者に転換したのでした。そしてキリスト教は、このパウロの劇的な転換を「回心」(conversion)と呼び、彼のこの経験によってキリスト教が成立したと考えています。新約聖書の使徒書の後半は、回心をした後にパウロが何をしたかを記録したものです。それを読むと、もしパウロが存在しなかったならば、あるいはパウロがこのとき回心をしていなかったならば、今日のキリスト教は存在しかったのではないかと思われるほどです。

 このパウロの回心の記録を注意深く読んでみると、「気づき」の興味ある特性がいくつか見えてきます。まずここに書かれている逸話全体は、パウロの「気づき」の状況描写と見ることができます。彼はダマスコへの途上で、今まで迫害していたイエスとその信徒たちが真理の側に立っていることに気づいたのです。それは、「突然、天からの光が彼の周りを照らした」(3節)というように、あるとき突然やってきました。「気づき」はしばしば、このように突然やって来ます。そしてそれは、「天からの光」としてやって来ます。パウロは同時に天から呼びかけるイエスの声を聞きます。これを神学者たちは「啓示」(revelation)と呼んでいますが、それは心の深部での「気づき」にほかなりません。

 次に、「気づき」は個人の内部で起こるものですから、周りにいる人々には何も見えません。「同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた」(7節)のです。そして「サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった」(8節)とあるように、何が起こったのかは本人にもよく分からないことが多いのです。それが心のずっと深い場所での「気づき」であるほど、その本当の意味を理解するのに多くの時間がかかります。「サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」(9節)とあるように、しばらくの間、彼は完全な混乱状態の中に置かれます。彼は結局、自力では回復できず、他の人の助けを借りることになります。それについては先の使徒書の続き(10—19節)を参照してください。(To be continued.)