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「直感」は人が複雑な事態に直面したときに、その解決に大きな力を発揮します。事態が複雑であればあるほど威力を発揮します。学校で数学の問題に真剣に取り組んだことのある人はみな、そういう経験を持っているのではないでしょうか。何としても解けなかった幾何の問題が、あるとき直感的に図形に線を1本引いただけで、たちまち解決したというようなことです。あるいは、一日中あれこれ考えてこんがらがっていた問題が、翌朝目が覚めたらいつの間にか解決していたという経験もあるでしょう。湯川博士をはじめとして、ノーベル賞を受賞した著名な日本人科学者の多くがそのことを語っています。「直感」は「気づき」の道具として、だれもが持っている偉大な力なのです。

 しかし使徒パウロがダマスコの途上で経験したような大きな「気づき」と、私たちが日常的な言語の学習や使用の過程で得る小さな「気づき」との間には、あまりにも距離があり過ぎると考える方もあるかと思います。しかし両者の間には、自己と関係している全体が見えたときに起こるという点で共通しているように思われます。パウロの場合には、ダマスコの途上にある時まで、自分が直面している事態の全体を把握することができませんでした。彼は物事の半面(自分の立場)しか理解していなかったのです。ですから、イエスの教えを説く人々がけしからぬ連中であるという想いにとらわれていました。しかしダマスコへの途上で、彼は突如、事態の全体を把握したのです。おそらく、そのとき彼に降り注いだ「天からの光」がきっかけを与えてくれたのでしょう。その「気づき」は間違いなく直感によるものでした。しかしそれは、これまでの彼の立場を全否定する過酷なものでしたので、大混乱が起こったわけです。

 次に、私たちが文章を作る場合のことを考えてみましょう。たとえば、病院に入院している友人を訪ねた経験を他の友人にメールをする場面を想定してみましょう(これは筆者が実際に先日経験したことです)。まず次のような断片的な事柄が想起されました。

*昨日○○君を見舞いに行った。*彼は新宿区の△△病院に入院している。*昨日は寒かったが良い天気だった。*病院の近くまで地下鉄に乗った。*△△病院は大きな病院だった。*彼の病室は見晴らしのよい13階にあった。*○○君はあんがい元気そうだった。*治療のためにもう3週間くらい入院している予定だと彼は言った。

私たちは文の最初の語を書く前から、上記のような「想い」(thought)を全体的に把握しています。そしてその想いを表現するのにふさわしいと思われる語を選択し、それぞれを適切な語形にし、語順を整え、一貫した論理的な文章になるようにします。筆者は最初次のような下書きを作りました。

* 昨日は寒かったが良い天気だったので、地下鉄に乗って、入院している○○君を見舞いに行きました。彼は△△病院という大きな病院に入院していて、あんがい元気そうでした。彼の病室は13階にあって、見晴らしのよい部屋でした。治療のためにもう3週間くらい入院していると言っていました。

 私たちはこのような文の組立ての大部分を意識下で行っています。しかし時おり、途中で適切でないと思われる語が選ばれたり、文法的におかしいと感じられたりすることがあって、分析のために意識がそこに集中することがあります。そして出来上がった下書きを読んでみると、いかにも事務的で面白みに欠け、友人を見舞いに行った報告として何かが欠けている感じがします。直感的にそう感じます。そこで何が欠けているかの分析に入ることになります。文章を作るプロセスでは、意識が全体と部分の間を往来し、直感と分析が交互にやってきます。そしてこれは、文章を読んだり聴いたりするときにも共通していると思われます。

 用いる言語が母語以外の、まだ充分に習熟に達していない言語の場合には、この直感が使えないことがあります。その一因として、選ぶ語彙が限られており、候補として挙がってくる語彙をいちいち分析的に検討する必要が生じるからです。また、それぞれのセンテンスを構成する語の形態や配置にも意識を集中しなければなりません。そうして出来上がった文章は、しばしば落ち着きのわるい、すっきりとしないものになりがちです。それは文章の一部に意識が集中してしまって、全体への目配せが欠けるからです。部分の分析に集中しながらも全体を意識するという二つの意識の配分が、直感力を排除しないための重要なポイントであるように思われます。これは難しい仕事ですが、私たちは自分自身をそのように訓練する必要があります。どのようにしてそれを訓練するかが次の課題となります。(To be continued.)