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北の核−1

 北朝鮮が、大陸間弾道弾と核兵器小型化の実験に成功したことから、世界、特に日本は近い将来、重大な局面に立たされることになるかもしれない。そうなれば、国や政府だけでなく、国民ひとりひとりの生き方を問う深刻な問題にもなるだろう。この問題を考える時、核兵器をめぐる歴史を知っておくことは不可欠であると思うので、ここに私なりに概括しておきたい。

核兵器開発の歴史 ① 序曲 
                  
 1945年7月16日、マンハッタン計画によるトリニティと名づけられた世界最初の核爆発実験がニューメキシコ州アラモゴードの空軍演習場で行われた。この時、実験を主導したロスアラモス研究所の所長で、「原爆の父」と呼ばれるロバート・オッペンハイマーは、目もくらむ閃光に続いて爆風が過ぎ去った後「私たちは、世界は前と同じでないことを悟った。我は死となれり、世界の破壊者となれりという思いを抱いた」と回想している。アラモゴードの核実験は、人類の未来が核によって左右されることになる運命の序曲だった。
 
 アラモゴードでの最初の原爆実験にはプルトニウムの核分裂爆弾(fission bomb)が使用された。実験からわずか20日後の8月6日午前8時15分、B−29戦略爆撃機からウラニウム原爆が、廣島に投下された。原爆は中心市街地の上空約600メートルで爆発するよう設定されていた。ウラニウム爆弾は実験なしにいきなり実戦投下されたのである。何故これほど急いだのか。何故爆心がこのように設定されていたのか。さらに3日後の8月9には長崎に2発目の原爆が投下された。この核分裂爆弾はすでに実験済みのプルトニウム原爆だった。

 戦争を早く終わらせるためならば、1発で十分だし、警告を発した上、実験済の爆弾を無人島などに投下する選択肢もあった。上記の事実は、日本への原爆投下が ① 核分裂爆弾の威力を試す人体実験であったこと ② 戦後世界の覇権を争うソビエトを意識した示威行動(show of force)であったことを示している。なお、廣島型原爆の威力は、高性能爆薬(TNT火薬)にして15~20キロトン(1トン爆弾の2万発分)と推定され、後に核爆弾の威力を示す標準(nominal)となった。

 オッペンハイマーは、引き続き威力が格段に大きい重水素を使った核融合爆弾(fusion bomb、thermo-nuclear bomb熱核爆弾)つまり水素爆弾の開発を命じられたが、拒否してロスアラモス研究所を去り、その後核兵器の開発に携わることはなかった。オッペンハイマーに代わって「水爆の父」となったのは同じ研究所のエドワード・テラーだった。オッペンハイマーとテラーがいずれもユダヤ人であったことは、ヒットラーに追われた彼等にとって、ナチスドイツが先に核爆弾を手にすれば、世界がファシズムによって席巻されるだろうという危機感、恐怖感があったことは疑いない。

 亡命科学者らはイギリス、アメリカ政府に対し核兵器の開発を強く要請し、両国にカナダを加えたマンハッタン計画が、1942年9月、レズリー・グローヴス米陸軍准将(後中将に昇進)を責任者として正式にスタートした。最初の本部がニューヨークのマンハッタン工兵管区にあったことからこのように呼ばれる。廣島に世界最初の原爆が投下される3年前のことであった。なおカナダには世界有数のウラン鉱床があり、廣島原爆に使用されたウラニウムはここから採掘されたウラン鉱石から濃縮されたとされる。(M)