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(157)「終戦の日」に思う ③

  猛暑の夏が続いている。団地の窓から見上げると地上の湿気で空が薄青い。68年前のあの日もこんな空だったかなあと思う。「戦争が終わった」と告げられ、動員先の工場の地下にあった作業場から出てきた目に陽光がまぶしく、機密書類に石油をかけて焼く炎の輻射熱と熱風が一層暑さを増幅させていた。そう言えば、ラジオで何を言っているのかよくわからない「終戦の詔勅」を聞いた後,いつもの海草入りお粥の給食を受けないまま帰宅を命ぜられ、出てきてしまったことに気がついて、熱風と空腹と精神的混乱で、へたへたと座り込みそうになったことを思い出す。

  戦争が終わった。だから確かに「終戦」だ。しかし、戦争は自然に終わったのではない。日本の無条件降伏によって終ったのである。だから、私にとっては「敗戦」であり、この日は「敗戦の日」なのである。自然に終ったのなら、ああそうか、ですまされるだろう。しかし、敗戦であれば、当然のことながら、その原因と責任を明らかにしなければならない。そうしなければ、この戦争で亡くなった人達は浮かばれないし、学校へも行けず、食うや食わず、薄暗い地下工場で兵器作りに過ごした二度と来ない青春の日々に、どんな意味があったのかもわからず、再び同じ道を歩む可能性さえある。あれから70年近く、私は、ずっとそう思って生きてきた。当然のことがなされない限り、この国には存在の基盤がなく、本当の再生もない、とも考えてきた。

  政府主催の「全国戦没者追悼式」が初めて日本武道館で行なわれた日に、参列した遺族にHNKのアナウンサーが、「御主人(息子さん)は犬死だったとは思われませんか」と問いかけて物議をかもしたことがあった。たしかに、「犬死」という言葉は配慮を欠いていたが、質問の趣旨は真っ当だったと私は思う。茅ケ崎出版が九段下にあるので、私も戦後何回か靖国神社へ行ったことがある。しかし、それは政府が言うように、単に国のために尊い命を捧げた戦没者の霊よ安かれと祈るためではない。戦没者の無念の思いを共有し、再び、国が起こした愚かな戦争で、国民が死ぬような事態を招かぬよう自分が出来ることはしますと誓うためであった。

  私は、戦後70年の節目に向けて、8月15日を「飢餓を体験する日」にしたらどうかと思う。ニューギニアやレイテ戦線、インパール作戦などでは多くの日本兵が餓えて死んだ。
〔2012−9−15 イラワジ川の光る石〕 太平洋戦争の戦死者の半分以上が餓死であったとする説もある。飽食の時代には想像もつかないだろうが、飢餓の時代をすごした我々世代の人間には飢餓の辛さが痛いほどよくわかる。 飢餓によって人間は鬼になる。cannibalismさえ伝えられているのである(大岡昇平 レイテ戦記 筑摩書房)。

 敗戦直後、戦災孤児となり、餓えによって幼い妹をなくし、その体験を「火垂の墓」に書いた野坂昭如は“飢え”について次のように述べている。「飢えを表現するのは難しい。腹が減るイコール飢えだと思っている向きがあるが、それは少し違う。人が本当に飢えに直面した時、人は人でなくなる。早い話、殺人でも強盗でも何でもしてしまう。」(「終末の思想」NHK出版新書)。飢えとはそういうものだ。

  敗戦前後、食糧の配給は一日一人240グラム、小さな茶わん一杯分だった。それも、コメではなく、雑穀や水っぽいさつま芋が多かった。それを、目玉が写るような水ばかりのうすい粥にして啜ったのである。別に強制しなくともよいが、8月15日には、心ある国民はこの量で一日を過ごしてみることにしたらどうか。
 
子供達の中には空腹に耐えかねて、暴れたり、泣き出す子もいるだろう。それを見る若い両親や祖父母達はどんな気持ちになるか。しかも、本物の飢餓は一日で終るのではない。何時終るか,いやもっと悪くなるかもしれないのだ。それを想像してみよ。想像できなければ「火垂の墓」を、「レイテ戦記」を読め。自ら苦しむことによって人の苦しみがわかるようになる。想像力を働かせることによって、未来のために今、何をしなければならないかがわかるようになるだろう。

 飽食の時代がいつまで続くかわからない。飢餓世代の一人で元NHKプロデューサーの農政ジャーナリスト中村靖彦は、「日本の食は砂上の楼閣である」と警告を発している。
(日本の食糧が危ない 岩波新書)(M)

* 終戦の日に思う ① アーカイブ 2011−8−13 ② 2011−8−20