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(171) これからどうする‐マクロの展望

③ 人権は守られているか

4. < 恐怖からの自由 >

 「人間の安全保障」の「欠乏からの自由」と「恐怖からの自由」は、相互に絡み合っており、色々な概念がありうるが、「恐怖からの自由」には、基本的には肉体的な恐怖、精神的な恐怖、具体的には、戦争や紛争、不当な裁判による投獄や拷問などの暴力に対する恐怖、天災や事故など災害に対する恐怖、病気や欠乏に対する恐怖からの自由などがある。

私は、戦争体験者の一人として、日本国憲法前文の言う「平和のうちに生存する権利」こそが、絶対不可欠な「恐怖からに自由」であると考えている。
 
 日本の国民は戦後70年近く、「平和のうちに生存する権利」を享受してきた。その原動力はやはリ、日本国憲法であったと私は思う。しかし、その間、世界ではたびたび戦争や紛争が起き、何百万の人達が死傷し、難民となっている。こうした現実から、日本国憲法は理想論であるとして戦備を拡大強化する改憲論が台頭してきており、日本国民の「平和のうちに生きる権利」は岐路に立っている。

 平和を維持する条件について、国際政治学者の藤原帰一・東大教授は、次の三つの類型を挙げている(戦争の条件:集英社)。

1.軍事力の均衡の他に戦争を起こさない状況はありえないとするいわゆる現実主義
2.軍事力を放棄するといういわゆる絶対平和主義
3.戦争を違法化し、戦争を起こした主体へ制裁を課す集団安全保障主義

 言うまでもなく、1.は自民党などの考え方 2.は日本国憲法の立場 3.は国際連合の理念である。自民党政権が、憲法改正を目指し、「国家の安全保障」のための特定秘密保護法や国民投票法によって、外堀を埋めようとしている時、国民の一人一人が、自らの、そして家族の生命にかかわる「人間の安全保障」の問題として「平和のうちに生きる権利」をどのように護るかを真剣に考える必要があるだろう。

 藤原教授は「リアリズムも平和主義も現代の国際政治における平和の条件を提示しているとは考えない。武力行使が平和の条件を与えているとも考えない。求められているのは、そのような観念のどれに頼ることもできない霧の中で、できる限り戦争に頼ることなく、暴力と不正を回避することである」と述べている。現状認識としては私もそう思う。しかし、「戦争に頼ることなく暴力や不正を回避する」ことは出来なかった。今後も回避できなくても致し方ないということですますのか。地域紛争が核戦争につながる可能性もあることを考えれば、それではすまされないだろう。(アーカイブ 2013−3~4 北の核 1~7)

 私自身は、これまでにも述べてきたように、3.の立場をとる。国連の理念は「集団安全保障」である。国連憲章の中核となる第7章では、国連の主要な目的である国際の平和と安全を維持するため、国連軍を編成することになっている。しかし常任理事国の不一致や思惑で、これまで一度も正規の国連軍が編成されたことはない。

 国連軍の編成と活動によって、5500万人といわれる第2次世界大戦の犠牲の上に生まれた国際連合も、300万人の犠牲の上に成り立った日本国憲法の理想も生かされることになると思うからである。これは理想論ではない。現実に世界は少しずつではあるが、その方向に進みつつあると思われる。シリアの化学兵器使用をやめさせるためのアメリカの軍事介入は実現しなかった。アメリカが世界の警察官としての役割を担うことは今後も困難だろう。
それに変わりうるものは国連しかないのが現実である。国連加盟国は当初の55カ国から、200カ国近くまで増えた。ガリ・元国連事務総長が提案し、アメリカなどの反対で潰された国連の強制執行部隊の創設が、やがて実現すると私は考えている。

  戦争に劣らず「平和のうちに生きる権利」を脅かすものは原発である。チェルノブイリでは数十万人、福島では30万人以上が生活を根こそぎ奪われ、これからも放射能の脅威におびえながら暮さなくてはならなくなった。このような事態がまた起きないという保障は全くない。

 福島第一原発の原子炉建屋内の様子が全くわからない中で、4号機の圧力容器の上にある核燃料棒プールから1500本を越える使用済み燃料棒などを取り出す作業が始まった。前例のない危険な作業を、汚染水問題で管理能力の欠如をさらけ出した東電が安全に遂行できるのかどうか、福島の人達は勿論、日本中がハラハラしながら見守らなければならない。そしてそれは、廃炉の完了まで、多分不都合な真実を隠したまま、40年も続く。(M)