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<人権大国への道>

所与の条件 隣国—4 

ロシア ① ロシアへの不信感

 ロシアに対しては日本人の多くが不信感や警戒感を持っているように思う。

その淵源は多分江戸時代中期にさかのぼる。長く鎖国を続けた(1639~1854)江戸幕府には、帝政ロシア(1721~1917)についての知識はほとんどなかったようだが、1785年の蝦夷地調査でロシアの南下を知った幕府は、警戒を強めるようになった。1792年には、日本の漂流民大黒屋光太夫らを伴い北海道の根室に来航して交易を求めたロシアの使節団を追い返している。光太夫は紀州の船乗りで、1782年米を積んで江戸へ向かう途中、時化にあってカムチャツカ半島へ漂着し、仲間とともにシベリアへ渡った。カムチャッカ、シベリアでは多くの仲間を失いながら、イルクーツクなど各地を転々として暮らしたが、やがて酷寒のシベリアを旅してぺテルブルグに至りエカテリーナ2世に帰国を懇願して許された。光太夫以前にもかなりの日本人漂流者がシベリアへ渡ったが、帰国は許されなかった。彼らは日本との交易に備えて日本語教師として利用されていたのである。ロシアの周到な準備がうかがえる。光太夫が特に帰国を許されたのは、彼の苦難に満ちたシベリア横断の旅や毅然たる態度が女帝を動かしたからだという。幕府は10年間をロシアで過ごした光太夫を江戸に留め、ロシアの内情を聞きだして「北槎聞略」にまとめた。江戸時代中期の終わりころ、寛政年間のことである。(大黒屋光太夫 吉村昭 新潮文庫)

幕末に至って幕府は伊能忠敬に蝦夷地の測量を命じ、これを間宮林蔵が引き継いだ。幕府の隠密でもあった林蔵は、1809年、国禁を犯してシベリアへ渡り、アムール川(黒竜江)をさかのぼって清国の役所のあるデレンに至り、この地方にはロシア人よりも中国人が多いことを確認している。ちなみに、アムール川左岸は1858年の愛暉条約により、沿海地方は、1860年の北京条約によってロシアが清国から獲得したもので、いずれも清国の混乱に乗じた不平等条約といわれる。これによってロシアは、不
凍港であるウラジオストクを獲得した。

同じ頃(1855安政元年)、幕府はロシアと和親条約を結び、千島列島の択捉島とウルップ島の間に国境線を設けた。樺太については、意見がまとまらず従来通り、日本人、ロシア人、アイヌなどの混住の地として残された。樺太の帰属については、明治維新後の1867(明治8年)の樺太・千島交換条約で、樺太全島をロシア領に、ウルップ島以北の千島列島(クリル諸島)の18の島を日本領とすることにより一応決着した。

ロシアは18世紀、上記のエカテリーナ2世の頃から貿易など海洋進出のための不凍港を求めて南下政策を開始し、ヨーロッパではクリミア半島を確保して、黒海から地中海への出口を得る一方アジアでは、ウラジオストクを獲得してさらに旅順を狙った。こうした動きに、生まれたばかりの明治新政府は警戒感を強め、満州・朝鮮を緩衝地帯としてこれを食い止めようと図った。その際一つの焦点となったのが遼東半島・旅順であった。日本は日清戦争の結果遼東半島の領有権を得たのも束の間、ロシアを初めとする3国の干渉で、返還させられたばかりか、ロシアに租借権を奪われてしまった。“臥薪嘗胆”石にかじりついてもロシアを撃てという国民世論が沸騰した。日本政府は世界一の陸軍国との戦争に慎重であったが、シベリア鉄道が旅順まで延長され兵力輸送が容易になれば万事休すとみて、日露戦争に踏み切った。勝つには勝ってなんとか南樺太の割譲を受けたものの、ロシアは賠償金をびた一文払わす、新聞はポーツマス講和条約を”屈辱条約“と書き立てたので、国家財政が枯渇して耐乏生活を強いられていた国民は再びロシア憎しで固まった。

一方ロシアでは、日露戦争の末期に起きた革命運動が、次第に社会の底辺へ広がり、第1次世界大戦中の1917年ロマノフ王朝が倒れ、内戦を経て、1922年、史上初の共産主義国家ソビエト連邦が誕生した。これに続いて、世界の各地に共産党が誕生し、この年の7月には日本共産党が結成された。日本共産党は天皇制の撤廃を唱えたから、政府は治安維持法の基づき、特高警察を使って共産党を弾圧し、1928年(昭和3年)3月15日、1600人が検挙され、厳しい取り調べを受けた。この時の拷問の様子を小説「1928・3.15」に書いた小林多喜二も後に特高の拷問を受けて死んだ。
この3・15事件を、政府は、異論を排除して国内世論を統一し、戦争へ向かう踏み台としたとされる。こうした恐怖政治の中で、共産党に対する大衆のアレルギ—が高まり、権力に都合の悪い者は、アカのレッテルを貼られて社会から葬り去られた。このような社会の趨勢は、とりもなおさず、世界共
産党の中心であったコミンテルン(国際共産主義連合)やその後身であるコミンフォルム      への、そしてその中核であるソ連への国民の警戒心を高めていった。              

そのソ連と、日本政府は太平洋戦争開戦に先立ち、1941年4月に「日ソ中立条約」を結んだ。日本はアメリカと、ソ連はドイツとの戦いに後顧の憂いをなくすためだった。この条約には相互不可侵が決められているが、日本の敗色が濃厚になった1945年2月、ソ連のスターリンは、クリミヤのヤルタでアメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチルとの秘密会談し、対日参戦を約束した。それを知らない日本政府は、ソ連に条件付き降伏の仲介を依頼したのである。

ソ連は4月、中立条約を延長しないことを日本に通告、国境に待機した174万の大軍が、8月9日まず満州、蒙古、朝鮮へ、11日明け方から樺太、千島へ侵攻し、日本が降伏を通告した15日以降も攻撃を継続、拡大した。この無法な侵攻とその後のソ連軍の非道な振る舞いは、日本人の対ソ感情を決定的に悪化させた。私の家内は、樺太で生まれ女学校3年生まで育った。ソ連軍の南下が伝えられ、真岡郵便電信局での女子職員の集団自決などが相次ぐ中で、15日大泊から引き揚げ船に乗ったのだが、遅れて次の船に乗って家族の半分は、留萌沖で潜水艦に撃沈され帰らなかった。海岸に打ち上げられた遺体を引き取ることも出来なかったという。潜水艦の国籍は不明とされたが、ソ連のものに間違いないだろう。引き上げの様子はかつてこのブログの投稿の一部として載せた。<アーカイブ 2010−10−30付記>

 さらに悲惨を極めたのは北満に入植していた開拓団の人達だった。日本軍に見捨てられ、ソ連軍に追われながら祖国へ向かって満州の曠野をさまよった日本人の姿を、日本人会会長であった高碕達之助(満州重工業総裁、帰国後通産大臣)は次のように記している。「奥地から逃げてきた日本人が、疲労困憊の姿で足を引きずっている。髪は乱れ、着物はよれよれになった足袋裸足の婦女子。子供には晴着を着せているが、それも雨ですっかり濡れはて、泥にまみれて見る影もない。これを満州人が嘲笑的な面持ちで眺めている。そのあまりにもみじめな光景は、到底正視できるものではなかった。」(満州の終焉 実業の日本社)開拓団の人々にとって黒ずんだ緑の軍服に自動小銃を持ったソ連兵は、悪魔に見えたことだろう。

もう一つ、ロシアに対する日本人の心証を悪くした歴史的事実にシベリア抑留がある。満州に駐留していた日本軍(関東軍)の兵士数十万人(厚労省調べで57万5千人、50~75万の諸説)が、降伏後最長10年にわたりシベリアに抑留され、森林伐採や鉄道建設などの労役に服せられた。酷寒のシベリアにおける飢餓状態での労役で”枕木一本・人ひとり”と言われるほどの犠牲者(厚労省調べで5万5千人。6万人という説もある)を出した。関東軍の将校であった私の義兄も3年間抑留された。その間の事は死ぬまで一言も漏らさなかったが、多くの部下を失った自責の念とともに、口に出すことのできない多くの出来事があったのだろう。<アーカイブ 2011−8—13 軍人だった先輩たち >    

日本の敗戦後まもなく始まった米ソの冷戦の中で、アメリカの世界戦略に組み込まれた日本にとって、ソ連は日米安保条約における仮想敵国であった。その上、いわゆる「制限主権論」という手前勝手な理屈で東欧諸国を支配し、“プラハの春”を戦車で押しつぶしたソ連の悪行を多くの日本人は忘れていない。

このように歴史的に積み重ねられてきた不信感や警戒感は、容易に消し去ることができない。それは韓国人や中国人が日本の植民地支配や侵略に対して持つルサンチマンと同質のものだろう。プーチン・安倍の個人的信頼感なるものや戦略的互恵関係でにわかに消え去るようなものではない。ロシアやロシア人は今でも、日本人にとって知られざる国、知られざる国民であると思う。高碕達之助は満州から帰った後、日中国交正常化のために井戸を掘った。そうした地道な努力、人的交流の積み重ねが、ロシアとの間でも積み重ねられて行くことを期待したい。  (M)