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先日韓国・仁川で開催されたアジア大会のレポート(10月5日付朝日新聞)の中に、次のようなエピソードが書かれていました。海外の記者が日本の男子サッカー選手に英語で問いかけても、ほとんどが素通りしてしまう。「なぜ日本の選手は話さないのか」と、複数の記者からあきれられた、というのです。これはサッカー選手だけでなく、日本人スポーツ選手にはありそうなことです。英語で話しかけられて、すぐに対応できる日本人選手がいなかったのだと思います。うまく対応できそうもないからインタビューを避けたのでしょう。しかし逃げるという態度は、外国人記者からすると異様に見えたのも当然です。これは日本のこれまでの英語学習者の欠陥(同時に英語教育の欠陥)を象徴的に表わしている出来事だと言ってよいでしょう。使われた言語が聞いたこともない言語であるならばともかく、誰でも多少は知っているはずの英語で話しかけられて逃げてしまう。これは非常に残念な態度です。

英語でどんな話題にも対応できるようにすることは、普通の日本人には望むべくもありません。日本語であっても、それはたいへんなことです。しかし自分が現在深く関心のある事柄については、何か意見を持っているはずであり、何か言えるはずです。それを英語で語るにはもちろん心掛けと事前の練習が必要です。しかし国際試合に出かけて行ってそういう心構えのまったくない人は、選手として致命的な欠陥があると言ってよいのではないでしょうか。アジア大会のような国際的な競技大会では、当然のことながらアジア各地から来た多くの選手と接します。それらの選手たちと直接交流する機会はなくても、競技を通して学ぶことはたくさんあるはずです。経験から学ばずに成長はあり得ません。勝ったとか負けたというだけではなく、一つ試合をしたならば、相手から何を学んだかをきちんと整理し、それを他の人にも伝えることが大切ではないでしょうか。

上のエピソードと関連して、今年6月から7月にかけてブラジルで開催されたW杯サッカーでも似たような光景が見られました。日本チームは一次リーグで敗退し、最終トーナメントには進出できませんでした。勝負は実力と時の運が必要ですから、敗退は仕方のないことです。しかしその後で気になることがありました。彼らが日本に帰国したとき、空港に出迎えに来ていた大勢の人々が「お疲れさま」と盛大な拍手をしていたのに、選手たちは全員下を向いて逃げるようにゲートを出て行く姿がテレビに映っていました。それを見て、この選手たちは出迎えの人々に顔を向けられないほどに負けたことを恥じているのだろうが、それなりに懸命に戦ったのだから、顔を上げてもっと堂々と帰ってくればよいのにと思ったのは私だけだったでしょうか。

筆者はサッカーをしたことがありませんので技術的なことは分かりませんが、何事も学ぶことによって知識を増やし、実践と経験を積むことによって技を磨くことにおいては共通していると思います。学ぶためにはできるだけ他の多くの人々から学ぶことが重要であり、それを自分なりに消化して自分のものとして体現するのが理想です。その点で英語とサッカーの学びは同じではないかと思います。英語の学習を入学試験や資格試験に合格することだけを目的にしてはならないのと同じく、サッカーの場合も大会で勝つことだけを目標にしてはなりません。試験を受けるかぎり合格を目指すことは当然であり、試合をするかぎり勝つことを目指すのは当たり前のことです。しかしそれだけを目標にして成長することはできません。なぜなら、英語の学びはそれが終点ではなく、むしろ新しい学びの入口だからです。サッカーも同様だと思います。そして試合には負けることがあり、負けることによって学ぶこともたくさんあることを知るべきです。

最近、日本の国技と言われた相撲でモンゴルやヨーロッパなどから来た力士が大活躍しています。彼らは日本に来て相撲を覚えるだけではなく、非常に短期間のうちに日本語を使えるようになります。幕内の外国人力士で日本語が使えない人はいないようです。白鳳の日本語などはもう日本人と変わりません。私たちはそれを当然のことと思っているかもしれませんが、よく考えると、それはそんなに簡単なことではありません。彼らは相撲の技術を習得しながら、同時に日本語という怪物に取り組み、それを組み伏せるのです。2020年の東京リンビックが話題に上り始めましたが、そこで日本選手が成長できるかどうかは、世界の他の国々からやって来る選手たちとの交流の中から、何を学ぶことができるかにかかっています。勝敗は実力と時の運です。勝つことだけにこだわっていては、もっと大切なものを失います。