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伝統的な教育は厳しさを売り物にしていました。「教育は厳しいものでなければならない」というのです。生徒を甘やかしてはろくなことにならない、自由放任は生徒を甘やかすので、規律がおろそかになると考えられていました。筆者が学校を出て最初に勤務した東京都心の中学校の校長は温厚な人で、若い教師たちにとっては慈父のような校長でした。学校も創立して間もない頃で、教師も生徒も活力に満ちていました。今から考えるとずいぶん無茶な計画も多々実行に移されました。しかしやがてその校長が定年となり、新しい校長が他区からやってきました。その校長はやたらに規則にやかましく、学校の中がきちんとしていないと気が済まないという性格の人でした。朝の遅刻が厳しく取り締まられ、教室の秩序と整頓が厳しくチェックされました。とたんに学校の雰囲気が変わり、自由で大胆な計画が影をひそめました。現在でもそういう考え方をする校長や教師は少なくないのではないでしょうか。

「教育は厳しいものだ」ということには筆者も異論がありません。ただし、それは外面的に厳しい規律を課すということとは違うように思います。そもそも学びとは厳しいものです。何か新しい知識や技能を自分のものとするためには、厳しい自己規制と自己管理が必要です。英語の学びも例外ではありません。それは長期にわたる忍耐と努力を必要とします。英語をただ聞いているだけで英語ができるようになるという、魔法のような学習教材が売りだされていますが、それで成功するとは思えません。日本人の多くが高等学校までに6年以上もの英語学習を経験していながら、ほとんど使い物にならないことには理由があります。厳しい学びを継続する覚悟が乏しいからです。誰にとっても英語を思い通りに使えるようにするのは並大抵のことではないのです。教育は学習者の厳しい学びを背後から支えるものでなければなりません。

そして英語を学ぼうとする人が深く心に留めておくべきことは、学校で教えられることだけに頼ってはならないことです。学校で教えられるのは、英語のごく基礎的な部分だけであることを承知していなくてはなりません。学校の授業に何とかくっ付いていくだけの勉強では、いつまでたっても英語は使い物にはなりません。6年やっても10年やっても、たいして上達はしません。それは怠け者の大工が自分のなすべき仕事を放棄して、土台のあたりで建て上がるはずの建物をいたずらに空想しているようなものです。本当に英語が使えるようになりたいと思ったら、学校で習うものを基礎にして、その上に自分の構想する建物を建て上げる覚悟が必要なのです。

私たちの周りを見回すと、日本人でも英語の堪能な人がけっこういます。その人たちには大きく分けて2つのタイプがあるように思われます。第1のタイプは、アメリカやイギリスなど、英語が日常的に使われている土地で長期間暮らしたことのある人たちです。特に話すことに関しては、このタイプの人が多いようです。第2のタイプは日本に生まれ、日本で暮らし、日本で教育を受けた人たちです。特に読み書きに関しては、少数ですが、英語の達人と言ってよい方が筆者の周りにもいます。たぶんそういう方々は、早くから英語の学習に特別な関心があり、必死の努力をし、それを可能にする才能と学習環境に恵まれていたのだろうと思います。そういう人たちの数を増やすことはもちろん望ましいことです。しかしこのような高いレベルの英語力をすべての人に期待するのは非現実的です。なぜなら、私たちは日本で生活しているかぎり、英語だけやっているわけにはいかないからです。誰もができることは、各自が求める目標に向かって、自分の必要とする英語力を身につけることです。

ところが日本の教育は、個人がそれぞれに目標を決めて自分の学習を主導していくようなシステムにはなっていません。教育行政の中心である文部科学省は、英語教育のカリキュラムを決定するにあたって、日本に生まれ、日本語で生活している普通の生徒のことをあまり念頭に置いていません。学習指導要領を読むと、教育行政の最大の関心事は、大多数の生徒を犠牲にしても、少数のエリートを育成することにあるように思えます。まるでオリンピックの勝者を育成するみたいな英語教育です。たしかに英語でディスカッションをしたりディベートをしたりするのは格好のよいことです。生徒も憧れます。しかし日本で英語を学んでいるすべての生徒たちに、そのようなハイレベルの能力を期待するのは的外れです。そのような教育は落伍者を増し加え、やがて破綻します。教育の現場はそのような国の施策に惑わされてはなりません。何よりも学びは生徒のものです。そしてそれは厳しい鍛練を必要とします。先生方には、それぞれの生徒の学びをしっかり支えるような指導を心がけていただきたいものです。