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前回は、かつて進学競争緩和対策として実施された東京都の学校群制度を振り返って、入試というものがいかに強固な競争原理に根ざしているかを知りました。教育行政が入試制度を少々いじったくらいでは、進学競争は無くならないのです。それはおそらく、幕末から明治期にかけての文明開化いらい、日本国民にしっかりと根を下ろした文化の一部となっているのでしょう。しかし、当然のことですが、学校での学びは入試のためだけではありません。英語を学ぶのは入試に英語があるからだと考える人は、特に中学生や高校生には多いのではないかと思います。しかし少し考えれば分かるように、入試は当面の目標であって、入試が終わっても英語の学びは続行するのですから、入試が学びの目的とはなり得ません。では英語を学ぶことの本当の目的は何でしょうか。英語を学ぶことにはどんな価値があるのでしょうか。

この問題を考えるために、文科省が告示する学習指導要領に掲げられている 「外国語(英語)」の目標を検討してみましょう。ここに、私たち日本人が英語を学ぶ目的を考えるヒントが与えられると思うからです。中学校および高等学校の総括目標は次のように書かれています。

中学校の目標:「外国語を通じて、言語や文化に対する理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り、聞くこと、話すこと、読むこと、書くことなどのコミュニケーション能力の基礎を養う。」

高等学校の目標:「外国語を通じて、言語や文化に対する理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り、情報や考え方などを適確に理解したり適切に伝えたりするコミュニケーション能力を養う。」

上記の中学校・高等学校の目標に共通するポイントを整理すると、①(外国語を通じて)言語や文化に対する理解を深めること、②積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図ること、③コミュニケーション能力(の基礎)を養うこと、の3つになります。そしてこれら3つのポイントを比較してみると、目標の後に書かれている学習指導要領の内容からして、この目標文は③の「コミュニケーション能力を養うこと」に力点が置かれていることが分かります。③がなくてはこの目標は成り立たないのです。つまり、日本の学校で行われる英語教育は、「コミュニケーション能力を養うこと」が中心であり、この目標が達成できなければ英語を学ぶ価値がないということです。これが学習指導要領の考え方であり、文科省をはじめ、現在の多くの英語教師たちに共通した認識となっていると考えられます。

しかし本当にそうでしょうか。たとえば、①の「言語や文化に対する理解を深める」という目標だけではいけないのでしょうか。後で検討するように(次回の予定)、この文言の中には英語を学ぶ重要な価値がいくつも含まれています。または、②の「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育成する」という目標だけではいけないでしょうか。中学校では(小学校も含めて)英語による実際的コミュニケーション技能の養成よりも、コミュニケーションを図ろうとする態度の育成が優先するという考え方もあると思われます。あるいは、上記の①+②の目標の達成だけではいけないでしょうか。そして③も確かに必要不可欠な目標のように思えますが、高等学校修了までに「コミュニケーション能力を養う」と言明するのは正しいのでしょうか。それはあまりにも非現実的な目標ではないのでしょうか。実際にそういう能力を身につけて卒業していく高校生はどれだけいるのでしょうか。

この最後の点に関する疑問は非常に重要です。中学校の目標では「コミュニケーション能力の基礎を養う」という表現になっているのに対して、高等学校では「コミュニケーション能力を養う」と言い切っているからです。「能力の基礎を養う」と「能力を養う」では大きな違いがあります。週に4時間くらいの授業数で、そんな高い目標が高等学校修了時までに達成できると文科省は本気で考えているのでしょうか。また、学習指導要領の「内容」で指定されている語彙数の制限からして、その目標は達成不可能なのではないでしょうか。実用的な観点からすると、英語の語彙は少なくとも6,000語、望むらくは8,000語以上の受容語彙が必要です。学習指導要領で指定されている最大3,000語(中学1,200語+高校1,800語)では、実用からはほど遠い語彙数です。TOEFLなどはとうてい歯が立ちません。きちんとした基礎ができていない学習者に背伸びをさせて、やたらに実用的コミュニケーション能力を強調することは、外国語の学び方として非常に危険なことです。それは砂上の楼閣になりかねません。

筆者は、これまでこのブログで展開してきた議論から、現在の学習指導要領に掲げられている外国語(英語)の目標が適正であるとは思えません。それは、不可能なことを可能にせよという理不尽な要求を現場の先生方に要求しているように思えます。現在の中学校・高等学校が置かれているさまざまな英語教育条件(特に授業時間数とクラスサイズ)を勘案すると、高等学校段階の目標は、「英語によるコミュニケーション能力の基礎を固める」とするのがよいと考えます。これならば、多くの先生方が達成可能な目標として頑張ってくれると思います。達成できない目標を与えられて、現場は実際にどうしてよいか分からないというのが現在の状況であるように思われます。現実からあまりにも飛躍したこの学習指導要領の目標のゆえに、英語教育現場において多くの混乱が起きているのです。(次回には、英語教育の過程で生じるさまざまな学びの価値について考察することにします。)