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英語を学ぶと日本語との違いに驚くことがあります。と言うよりも、初めから驚くことばかりかもしれません。もし言葉に対する柔軟な感受性を保っていたら、英語を学び続ける間じゅう、驚き続けることになるでしょう。筆者がむかし中学校に入ったときに教えてくださった先生(黒田先生という名前だったと思います)は、「英語では自分のことを “I” と言う。誰もが自分のことを “I” と言う。天皇陛下も “I” である」とおっしゃったのでした。私は当時、天皇をご自分のことを「朕」と言うのだと思っていましたので驚きました。教育勅語が「朕惟フニ…」で始まっていたからです。その後いろいろな英語に触れましたが、確かに英語の一人称単数は “I” だけです。イギリスの王様も女王様も、アメリカの大統領も、そして金持ちも貧乏人も、等しく “I” なのです。

次いで相手は “you” で、それがどんな相手でも “you” だと知ったときも、驚きを禁じ得ませんでした。中学校1年生の早い時期に、 “Where are you going, Mother?” という文が出てきて、田中という生徒がそれを「お母さん、あなたはどこへ行くのですか?」と訳したら、先生が「田中は家でそういう日本語を話すのか?」と言われて(真面目な調子で言われたか、皮肉をこめて言われたかは思い出せません)クラス中で大笑いになり、その生徒は大いにまごついたのでした。筆者が指名されていたら、きっと同じことが起こったでしょう。訳をすることは、一言一句を日本語に移すことだと信じていたからです。

話は変わりますが、先日親しくしている大学の後輩から、息子が国立大学に合格したのだが、大学でどんな勉強をすべきかを教えてやってほしいと頼まれました。二三日後に息子さんが拙宅にやってきて、大学に入ったら哲学をやるつもりだと、いろいろ抱負を語りました。なかなか野心家のようでした。そして大学でどんな英語をやるべきかの話になりました。彼は「英会話をやろうと思う」と言い、私に対して、「あなたはどう思いますか?」と言ったのです。それを聞いて私は一瞬たじろぎました。60歳以上も年輩の人に対して言う「あなた」という言葉に、一瞬ですが違和感をもったからです。会話はそのまま続きましたが、彼が帰ったあと、「日本語ではこういう場面で使う二人称の代名詞を欠いているのだから、これでよいのだろう。今の若い人はこういう言い方をするようになったのか!」と、独り感慨にふけったのでした。

英語を学ぶときには、好むと好まざるにかかわらず、ほとんど常に言語の相対性(relativity)に気づかされます。相対性とは、簡単に言うと、言語が違えば発想法や思考法も違うということです(注)。英語を学び始めると、言葉による表現の仕方はもちろん、発想の仕方まで違うという感じがします。誰でも自分の母語の表現法や発想法がもっとも自然だと感じるので、他の言語の使い手は、自分たちとは違っていて不自然だと感じます。先ほど挙げた例のように、英語ではあらゆる場面で、すべての人が自分のことを “I” と言い、相手を “you” と呼ぶと聞いて驚くと同時に、それと日本語の一人称、二人称で使われる多彩な単語を比べてみて、今さらながら日本語の複雑さにあきれると同時に、すべての相手に「あなた」を用いることに大きな違和感をもちながら、もしそれが許されるならば、日本語はもっと民主的な言語になるのではないかと考えたりもします。

古くから、「外国語を学んだことのない者は自国語も知らないのだ」と言われています。文豪ゲーテもこれと同じことを言ったと何かに書いてありました。もし日本語しか知らずに一生を過ごしても、日本で普通に生きて行くことはできるでしょう。昔はむしろそれが普通でした。しかし英語を少しでも学んだ人は、たとえその学びが不完全なものに終わったとしても、日本語とは全く異なる語彙と構造をもつ言語の学びを通して、同じ物事を表現するのにもいかに異なる見方や考え方が存在するかに気づかざるを得ません。そのことは日本語の独善主義から私たちを開放します。つまり、日本語しか知らない人は、知らず知らずのうちに、自分の使っている日本語だけが正しく自然だと思うようになり、他の言語を不自然で変な言葉だと思いこむようになるのです。これは独善的な思想に導く危険があります。

英語の学習はそのような母語独善主義から私たちを開放します。英語は日本語から言語的に最も遠い言語の一つです。言語の相対性を実感するためには、英語のような言語的な距離の遠い言語を学ぶことは非常に価値のあることです。現代に生きる人々は、他の国々に住む人々との交流を余儀なくされており、可能ならば地球上のすべての人々と仲良く暮らしたいと思うようになっています。たとい英語の学びが中途半端で終わって完全に使いこなすところまで行かなくても、その学びの途上で気づいた言語相対性の感覚は貴重です。そしてその気づきから、私たちは日本語をよりグローバルに通用する言語として改善していく可能性が生じます。日本における中学・高校の英語教育の目的は、「実践的コミュニケーション能力を育成する」とするよりも、「言語相対性についての気づきを与える」とするのがよいのではないでしょうか。

(注)「言語の相対性」と聞くと、サピア/ウォーフの「言語相対性仮説」(the linguistic relativity hypothesis)を連想する方もおられるかもしれません。この仮説は、「人間の思考は言語によって行われることから、話す言語が異なれば思考方法も異なり、世界観も異なるとする考え方」(英語教育用語辞典)と定義されています。しかしこの仮説は、ウォーフが言っているような、「言語が人々の思考や行動を支配している」という強い仮説としては、学問的にはほとんど支持されていません。しかし人間の思考が言語によって影響を受けることはしばしば見られるところから、弱い仮説としては多くの人々に受け入れられていると思います。ここで述べている「言語の相対性」というのも、そのような考え方に立っています。