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私たちはたまたま生まれ育った土地の言語と文化を身につけます。そしてそれを自然なものとして感じます。そういうわけで、自分と異なる言語や文化に接すると、どれも不自然で奇妙なものに感じます。放っておくと、それらに対する偏見を助長することになります。しかし少し考えてみると、それは無知による偏見であることが分かります。人は生まれたときには地球上のいかなる言語、いかなる文化をも習得することができる力が与えられており、たまたま生まれ落ちた土地の言語と文化を身につけるにすぎないのです。ですから、自分のものとは異なる言語や文化を知ることによって、人は己の言語や文化が絶対的なものではないことが分かります。

言語の相対性はすでに取り上げましたので、ここでは文化の問題に集中します。まず「文化」(culture)という用語を定義しておきましょう。しかしその定義は意外に難しく、万人が一致するようなものはないようです。辞書を見ても、文化の定義は辞書の数だけあります。そこで、ごく標準的と思われる定義を日本語と英語の辞書から一つずつ選び、その内容と記述の仕方を比較してみます。日本語の辞書からは『広辞苑』(第2版)を、英語の辞書からはLongman Dictionary of Contemporary English (LDCE) を選びます。

『広辞苑』:人間が学習によって社会から習得した生活の仕方の総称。衣食住を初め技術・学問・芸術・道徳・宗教など物心両面にわたる生活形成の様式と内容とを含む。

LDCE : the customs, beliefs, art, music, and all the other products of human thought made by a particular group of people at a particular time.(特定の時期の特定の人間集団によって作られた慣習、信念、芸術、音楽、その他すべての人間による思考の産物)

上の2つの定義は、いずれも「人間社会における物質的・精神的生活様式の総称」という内容では一致しています。しかし両者はまったく同じではありません。違うところを3点だけ指摘します。第1に、『広辞苑』では「社会」という、内容がやや漠然としている用語を使っているのに対して、LDCEでは「特定の時代の特定の人間集団」と限定しています。このことから、後者のほうが前者よりも、文化の多様性や相対性を明確に意識している定義であると言うことができます。文化を特定集団の産物とすることによって、この地球上には多数の異なる文化が存在することを含意しているからです。

第2に、『広辞苑』では文化を「人間が学習によって社会から習得したもの」としているのに対して、LDCEのほうは、「特定の時代の特定の人間集団によって作られた(る)もの」と書いています。これは大きな違いです。『広辞苑』の定義は、文化は人々によって習得されるものであるとしています。それは、文化が過去から現在に受け継がれてきた伝統の所産であることを含意します。これはいわば文化の静的な捉え方です。他方LDCEでは、文化が特定の時代の特定の人間集団によって作り出されたものであると定義することによって、それを動的に捉えています。したがって、それは今後も人々によって改変され、また新しく作り出されることを含意しています。これは未来志向の定義と言えます。

第3に、それぞれの定義に例として挙げられている語に注目します。『広辞苑』では「技術」、「学問」、「芸術」、「道徳」、「宗教」の5つが挙げられ、LDCEでは ‘customs’, ‘beliefs’, ‘art’, ‘music’ の4つが挙げられています。面白いのは、前者に挙げられている「道徳」と「宗教」が後者には欠けていることです。これはおそらく、日本ではこれらを特記すべき文化の様式・内容とみなすのに対して、英語ではそれらが ‘customs & beliefs’ の中に必然的に含まれるものと考えるのでしょう。わざわざ特記するほどのこともないということです。

また『広辞苑』に「技術」と「学問」が挙げられ、LDCE に ‘music’ が挙げられているのも興味深いことです。「音楽」は日本文化では「芸術」の1部門と見なされているのに対して、英語の ‘art’(または‘arts’)は、ギリシャ・ローマの時代からの流れで、「芸術」のほかに「技術」や「学問」をその中に含むことが常識となっているのです。なお「科学技術」に関連する文化は、西欧では ‘civilization’ という別の用語で区別することが多いようです。

上に挙げたものは、数多くの定義の中の2つの例にすぎません。「文化」という用語をひとつ定義するのにも、それぞれの人間集団に固有の文化によって微妙な違いがあります。世界にはほとんど無数と言ってよいほど多くの人間集団が存在し、それぞれが固有の文化を形成しています。そして近年のグローバル化した経済は、それぞれの人間集団が孤立して生きていくことを困難にしています。好むと好まざるとにかかわらず、人々は異なる人間集団に働きかけ、問題を出し合い、互いに話し合い、利益を分かち合う必要があります。その場合にはまず理解し合うことが必要ですが、それが簡単ではありません。たとい互いに通じ合うことのできる言語があるとしても、文化の違いのために、また、それぞれの文化によって育まれた偏見のために、互いに深く理解し合うことが容易ではないからです。

他の文化を知ることは楽しいことも沢山ありますが、そればかりではありません。時として、私たちは理解しがたい文化の壁をどう克服するかの問題に突き当たります。単に言語だけの問題ではありません。21世紀の今日において、人々の交流が盛んになるにつれ、自分たちと異なる人種に属する人々や、異なる文化の中に暮らす人々に違和感を持ったり、時に露骨な不快観や敵意を抱いたりする現象が普遍的に見られます。多くの場合、それらは国の政治と関係していて、解決をいっそう難しくします。しかし文化の学びを考える場合には、これは避けることのできない問題です。文化の異なる者どうしが互いに理解し合うためには、どのような条件設定が必要でしょうか。そのとき、私たちの学んでいる英語はどのように役に立つでしょうか。また役に立たないでしょうか。次回には私たちの英語の学びを、どのようにして文化の衝撃を和らげ、相互の理解を深めることに役立てるかについて考えてみます。