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私たちはたまたま自分の生まれ育った土地の言語と文化を身につけるので、他の文化に関する情報を手に入れなければ、それらについて知ることができません。その場合には自分の文化を相対化することができないので、自分の身につけた文化が絶対的なものと錯覚します。これはたいへん危険なことです。この世界で自分だけが正しく、他はすべて間違っていると考えるからです。そういう危険な状態にある人は、おそらく現在もこの地球上に沢山いるに違いありません。中東やアフリカ諸国には、そういう土地や国が至る所に存在するようです。実は日本も、昭和の初めから第2次世界大戦の終わりまでは、ほぼそういう状態でした。その頃の日本は、現在の日本にとって不可解な国、北朝鮮に似ていたかもしれません。筆者は15歳まで、そういう状況の中に生きることを余儀なくされていました。

筆者が生まれたのは1930年(昭和5年)でしたが、ちょうどそのとき、日本は戦争に向けてまっしぐらに突進していました。生まれた翌年1931年9月、柳条溝の満鉄爆破事件をきっかけに満州事変が勃発し、日本軍は満州を占領して満州国をつくりました。小学校に入学したのが1936年4月でしたが、その翌年の7月に日中戦争が始まり、日本は中国との全面戦争に入りました。そして小学校6年生の1941年12月、日本は中国のほかにアメリカ、イギリス、フランス、オランダなどの連合国との全面戦争に突入しました(注)。大戦はけっきょく4年後の1945年8月の敗戦まで続きました。そのとき筆者は15歳でした。つまり、筆者がこの世に生れて来てから15年間は戦争に次ぐ戦争で、平和というものの味を知らずに育っていたことになります。

小学校に入って開いた国語教科書の第1課は「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」でした。桜は今も日本のシンボルです。しかし戦時中のそれは今とは違っていました。それは、パッと咲いてパッと散るのが大和魂(やまとだましい)の原点だと徹底的に教育するための伏線だったのです。お国のために命を捨てる、いたずらに命を惜しまない——これが日本男子の生きる道だと、耳にタコができるほど教え込まれたものです。「お国のために」がやがて「天皇陛下のため」になりました。中学校では校門の脇に「御真影(ごしんえい)」なるものが設置され、登下校の際にそこを通るとき、それに向かって最敬礼をするように言われました。「御真影」とは、その中に天皇陛下のお写真が置かれている小さな社(やしろ)のようなものです。最敬礼を怠ると、見張っていた教師にとがめられました。運悪く厳しい見張りに見つかって、ぶんなぐられたという生徒もいました。

日本が戦争に負けて、そういう時代が遠い昔話になったことはほんとうに喜ばしいことです。しかし、そういう時代が再び来ないという保証はありません。歴史は私たちに、人間が戦争という野蛮で愚かな行為を繰り返してきたことを教えています。戦争を起こさないようにするために必要なのは、地球上のすべての人々が互いに尊重し合うという文化の教育が普遍的に行われることです。それはもちろん容易なことではありません。不可能だと考える人が多いかもしれません。しかしそういう教育が徹底して行われるまでは、地球上から一切の戦争が消え去る時代は決して来ないでしょう。それがどんなに難しいことであっても、その希望を将来につなげていくことのほかにどんな方法があるでしょうか。

文化の教育は、学校教育や社会教育などあらゆる機会をとらえてなされなければなりません。その中でもとりわけ重要なのは外国語教育です。他の言語と文化を学ぶことによってのみ、私たちはその言語と文化を身につけている人々と理解し合う可能性が高まるからです。その点で日本の学校で行われている外国語教育はきわめて貧弱です。問題はいくつかありますが、特に2つのことが改善される必要があります。1つは「外国語」の中身が「英語」に偏っていることです。制度上は英語以外の外国語も選択できることになっていますが、実際に教えられているのはほとんど英語です。これではいけません。2つめは現在の指導目標が「コミュニケーションのための英語」に偏っていることです。それは目標の一部にすぎません。伝える内容がなければ、いくら英語が使えても役には立ちません。コミュニケーションは伝達の手段であって目的ではないのです。外国語は内容のある文化の教育が大きな地位を占める必要があります。

ここで現行の外国語学習指導要領の問題点を指摘しておきます。現行のものとは違って、1977年改訂の学習指導要領では、異文化理解の教育に重点が置かれていました。そこに書かれていた外国語科の目標は次のようでした。

「外国語を理解し、外国語で表現する(基礎的な)能力を養うとともに、言語に対する感心を深め、外国語の人々の生活や物の見方などについて(基礎的な)理解を得させる。」<注:括弧内の語句は中学校の目標に加えられているもの>

この学習指導要領は、外国語教育の主要目標が外国語の理解能力・表現能力の養成だけではなく、それと同時に言語と文化の教育であることを明確に示しています。この目標は、それ以後のどの学習指導要領よりも、その点で優れたものです。

ところが次の1989年(平成元年)の改訂においては、「外国語で積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育てる」が目標の中に入れられました。さらに1998年の改訂では、「聞くことや話すことなどの実践的コミュニケーション能力(の基礎)を養う」が加えられ、その後の学習指導要領はそのラインを継承することになりました。こうして、コミュニケーション能力養成が英語教育の中心目標となり、言語と文化についての教育は残念ながら大きく後退してしまったのです。私たちはここでもう一度、外国語の学びにおける文化の重要性について再認識する必要があります。

(注)筆者よりも10歳ほど年上の大野 晋博士(国語学者、学習院大学名誉教授 1919−2008)は、1941年12月8日の太平洋戦争勃発時にラジオの大本営発表を聞き、その際に感じたことを次のように書き遺しています。

「明治時代以来、この小さい島国を唯一の完結した世界と信じて生きて来た日本人。ことに軍人は自分の国、自分の文化、自分の言語を相対的な存在として見るすべを知らなかった。国の内部で銃剣によって実現できたやり方を、そのまま世界に対しても貫くつもりなのが軍部だった。突っ走りはじめてしまったこの暗黒の塊りは坂道をころげて行くしかないと私は思った。」(大野晋『日本語と私』河出文庫138頁)