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前回は文化の教育の重要性について述べました。そして「地球上のすべての人々が互いに尊重し合う文化の教育が普遍的に行われること」が、この地上から戦争を無くす唯一の方法であると言いました。しかし、「互いに尊重し合う文化の教育」とは具体的にどういうものなのかを、もっと深く考える必要がありそうです。なぜなら、「互いに尊重し合う」というのは理念としては理解できるけれども、そういう理念を学校の授業で単に頭の中の知識として教えられるだけでは、実際に異文化の人々と交わることはできないからです。

ほんとうに「互いに尊重し合う」ことができるようになるためには、文化的に異なる人々と実際に交わる経験をする必要があります。一般に、人は自分の文化と異なる文化に触れたときには戸惑いを感じ、時には怖れを抱くことがあります。小さな赤ちゃんは、知らない人を見ると、その人の顔をじっと見つめます。筆者もバスや電車の中などで、母親に抱かれている赤ちゃんによく見つめられます。たぶん、まったく別世界から来た人間のような気がして、怖れを感じるのでしょう。しかし笑顔を見せると、安心して警戒心を解き、自分も笑顔を返します。大人も同じように、異なる文化からやって来た人と交わるには、まず笑顔を顔に浮かべ、どんな初歩的な言葉であろうと、知っている言葉を使って挨拶を交わし合い、目を見つめ合うことが大切です。そうすることによって、相手も自分と同じように一個の人格をもった人間であることを確信するのです。

異文化理解は現代の教育でどのように扱われているでしょうか。わが国では、小学校や中学校の教育課程の中に「総合的な学習の時間」というのがあって、その授業の中で「国際理解教育」が行われることになっています。「国際理解教育」は「異文化理解教育」とは同じではありません。前者の中に後者も含まれると考えてよいでしょう。このような教育が行われるようになった背景には、ユネスコによる勧告があります。すなわち、1974年の『国際理解、国際協力及び国際平和のための教育ならびに人権及び基本的自由に関する勧告』によって、わが国は臨時教育審議会(1985~87年)の答申を踏まえて、そのような教育を推進することになったわけです。

その後1996年に中央教育審議会から答申された『21世紀を展望した我が国の教育の在り方について』には、「この教育(国際理解教育)を実りあるものとするためには、単に知識理解にとどめることなく、体験的な学習や課題学習などをふんだんに取り入れて、実践的な態度や資質、能力を育成していく必要がある」と書かれています。また、2002年度施行の小学校学習指導要領は、「総合的な学習の時間」の取り扱いについて、「・・・例えば国際理解、情報、環境、福祉、観光などの横断的・総合的な課題、児童の興味・関心に基づく課題、地域や学校の特色に応じた課題などについて学校の実態に応じた学習活動を行うものとする」と述べています。

上記の国際理解教育の方向性は新しい時代にふさわしいものです。しかしここに大きな問題があります。それは、これらの方針がほとんどすべて行政主導によるものであって、いわば上からのお仕着せの教育方針であることです。重要なのは、実際に子どもたちを指導する学校や先生方です。しかし教育現場からの盛り上がりは充分ではありません。そのことは文科省が行った実態調査にも現れています(注)。国際理解教育をほとんど、またはまったく実施していない学校が小学校は40%近く、中学校では75%近くにものぼるのです。そういうわけで、わが国の小学校や中学校で行われている「国際理解教育」は全般的に低調であると言わざるを得ません。

国際理解教育や異文化教育が学校教育の中にしっかりと根づくためにはどうしたらよいでしょうか。それはあらゆるレベルの学校教育の責任ですが、特に小学校の先生方の努力に期待するところ大です。なぜなら、幼い頃に体験した異文化との出会いは、その人の人生に大きく影響するからです。幼い子供たちは大人のように他の文化に対して偏見を持ちません。そういう人たちと一緒に遊んで友だちになることが容易です。青年期になって自己のアイデンティティーが確立してくると、それだけ新しい文化に対する抵抗感が大きくなります。

私たちは自分の属する人種を変えることはできません。それは遺伝的に決定されているからです。しかし文化は、自分の属する集団の人々が受け継いできたものですから、その集団に属する人々が皆でそれを変えようとする意思があれば、変えることができます。たとえば、日本の文化では握手をする習慣は無かったのですが、近ごろは日本人どうしで握手をする人を見かけるようになりました。握手に慣れていない人はお辞儀をしながら握手をしますが、これはヘンだと言う人もいます。しかし日本ではそういう形の握手もあるということを認めればよいので、とりあげて非難する必要もないと思われます。

そのような形式的なことよりも、文化の異なる人々が、お互いの文化を尊重しながら共に暮らすことができるような文化を創り上げていくことのほうがずっと重要です。文化の中には普遍的な価値という点で好ましくないものが数多く存在します。たとえば、これは日本だけではないかもしれませんが、激しいヘイトスピーチをする人がいます。それに対する法的規制をすることは可能でしょうが、それは根本的な解決にはなりません。少数者に対するそういう形の「いじめ」が日本文化の一部になっているとすれば、皆の力でそれを望ましい文化に変える努力をすべきではないでしょうか。また、かつてフランスでは、アフリカのマリ(Mali)からの移民の間で行われていた女子の割礼(circumcision)が問題になったことがあります。そういう文化はグロ−バルな観点から好ましくないというのです。フランス政府は結局、その人たちを説得してやめてもらうことにしたそうです。これは当然のことです。そこで必要なのは、きちんと説明できる論理です。

いろいろな種類の人々が交わることによって互いの文化を相対化し、新しい文化を創造していくことが、これからの教育のもっとも重要な課題になっているのです。この教育はグローバルな規模で行われる必要があります。日本の学校の先生方には、率先してそのような教育に取り組んでほしいものです。外国語の授業は、その目的のためにも、重要な役割を演じます。

(注)文科省から公表されている『公立小・中学校教育課程編成・実態調査』(2003年)によると、横断的・総合的な課題(国際理解、外国語会話、情報、環境、福祉・健康、その他)のうち、「国際理解」を実施している学校の平均パーセンテージは以下の通りです。

①小学校(第3学年~第6学年)における平均実施率 62.6%  ②中学校(全学年)における平均実施率 25.3%