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異文化の出逢うところでは、多くの場合、衝突が起こります。衝突は時に深刻な事態に発展します。私たちの周りを見渡すと、そのような事例は枚挙にいとまがありません。ここでは、私たちの身近な問題をいくつか取り上げて考察することにします。まず結婚生活について。

六月最初の土曜日、筆者の所属しているキリスト教の教会で結婚式が行われました。新郎新婦は同じ教会の会員です。青年会で出合って交際するようになり、結婚にまで進展したのでした。最近の教会は高齢者が多く、葬式はたびたび行われていますが、結婚式はめったにありません。多くの会員たちが出席して若いお二人の前途を祝しました。筆者も最高年齢者の一人として出席しました。教会は葬式も悪くないけれど、やはり結婚式は楽しく、若々しい雰囲気が満ちていていいものだと思いました。ところで結婚というのは、同じ日本人どうしの結婚であっても、二人の育った家庭の文化は相当に違っているのが普通です。二人の生きてきた足跡も個性も異なります。そこには必然的に文化の衝突が起こります。

まず生活習慣がかなり違います。いくつか例を挙げると、朝起きる時間が違います。一方は早起きなのに他方は遅い。朝食に夫は和食、妻はパン食などというのはよくあることです。最近は二人とも仕事を持っていることが多いので、出勤時間や帰宅時間が違うのは普通のことです。そのため二人で家事を分担する若いカプルが多くなっています。その場合には文化の違いを否応なく経験させられます。料理の好みや作り方、お皿の並べ方、洗い方、片づけ方がいちいち違うのです。そういうことに無頓着な人はいいのですが、気にする人も多いのではないでしょうか。そういう違いを数え出したらきりがないほどです。夫婦喧嘩などというのは、そういう些細な違いから始まるケースが多いのではないかと思います。それらはすべて一種の文化の衝突です。

戦前の日本の伝統文化では、家事はすべて女性に押しつけることになっていて、女性がそれを承知してくれればそれで済みました。ただしその場合には、夫が家事の権限をいっさい妻に委任することが前提でした。夫が自分の文化に固執すれば、そこには必ず紛争が生じました。嫁と姑の間に確執が生じたのは、姑が嫁のすることにいちいち口を出したからです。しかし日本が戦争に負けて、男性の権威は失墜しました。女性はもはや男性の言いなりにはならなくなりました。男女平等の世の中になったのです。都会の女性は、姑のいる家に入ることを好まなくなりました。それでも古風なしきたりを主張しつづける人たちがいましたし、今もいます。そしてそれは、たいてい、家庭内の紛争に発展します。若いカプルの離婚率がどんどん上昇する背景には、家庭内の文化をめぐるそのような紛糾があるのではないでしょうか。

夫婦はこういう文化の衝突をどのように処理したらよいでしょうか。その解決には、あらゆる場合に言えることですが、まず当事者間の冷静な話し合いが重要です。冷静に話し合うためには、両者が対等な立場になければなりません。一方が他を支配したり、軽蔑したりしているときには対等な話し合いはできません。結婚した当初から、そのような対等な話し合いの文化を家庭の中に創り上げることが望ましいのです。筆者自身は、自分の育った家庭にそのような文化がまったく感じられず、家長である父親の権限が無制限に認められていたので、家長以外の家族はみなストレスをためていて、時に家長への反乱の嵐が吹き荒れることがありました。そういう家庭に育ったものですから、結婚してからも、どのようにして平等で民主的な家庭を築いたらよいのか分からず、大いに苦労したものです。

夫婦間に平穏を保つためには、とにかく、一方が他方を抑圧するのはよくありません。人はだれでも他人に抑圧されることを好まないのです。抑圧された人は必ずストレス(暗く余剰なエネルギー)を心の中にため込み、何かの機会にそれを発散することを欲します。あるときはストレスをため込んで死にたくなるほど悩んだり、また何かの折に爆発したりします。抑圧するほうも、相手が不機嫌な気分でいることに気づきますから楽しくありません。そのことがストレスとなって、ますます自分をコントロールすることが難しくなります。人間関係というのは、概してそういうものです。夫婦のぶつかり合いというのは、結局は文化と文化のぶつかり合いです。真面目に対処しようとすれば衝突は避けられません。

夫婦を長く続けるためには、喧嘩は上手にしなければなりません。喧嘩をしながら夫婦というのは成長するものなのです。愛があれば喧嘩などしないと言う人がいますが、そうでしょうか。たしかに愛は大切ですが、愛があれば何でも解決するものではありません。なぜなら、人間の愛というのはあてにならないものだからです。今日は愛していても、明日はどうか分からないのです。私たちが生まれながらにして持っている「人を愛する」という性質はたいへん貴重なものですが、それは環境と自分の気持ちしだいで変化します。むしろ、夫婦の愛は喧嘩をしながら成長していくものです。本気で喧嘩をして、はじめて相手がどんな人かが分かってくるのです。「私たちは喧嘩をしたことがありません」という夫婦がいますが、私には信じられません。そういう夫婦は衝突をうまく避ける技術に長けているだけで、両人の愛はあまり成長していないのではないかと思います。

感情は変化しやすいものです。それに対して理性はあるていど一貫性を持っています。もし私たちが、生まれながらの愛の本能によってではなく、それを理性に照らして磨きあげることができれば、愛も一貫性を持ち、より変化しにくいものに成長します。著名な精神分析学者エーリッヒ・フロムは、その著書で「愛はアート(技術)である」と言っています(注)。その意味は、愛というのは私たちに生得的に与えられているDNAのプログラムに従って自然に発達するものではなく、他の人々との交流を通して、意思と努力で磨き上げられるものだということです。人は自分とは異なる人々や異なる文化と真剣に向き合うことによって、自分自身を知ることができ、そして相手を深く理解することができるのです。

(注)エーリッヒ・フロム(Erich Fromm 1900-80)はユダヤ系ドイツ人として活躍した精神分析学者・社会心理学者です。1933年ヒトラーが政権を取ったのを嫌って米国に移住しました。彼が戦時中に書いたEscape from Freedom (1941) は、戦後日本でも翻訳出版され(日高六郎訳『自由からの逃走』現代社会科学叢書1951)、戦後の混乱期にある日本の知識人に大きなインパクトを与えました。The Art of Loving (1956) は彼の代表作の一つで、「愛はアートである」という思想についてはここに詳しく説明されています。日本語訳が出ていて(鈴木晶訳『愛するということ』紀伊国屋書店1991)、ロングセラーになっています。