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前回に述べた文化の衝突についての考察は夫婦の間だけではなく、同じコミュニティーに住む人々や、世界のいろいろな地域に住む人々との付き合いにも当てはまる面があると考えられます。もちろん夫婦と他人とでは全く同じではないでしょう。しかし夫婦はもともと他人であったものが、婚姻という制度によって、二人が一体であることを公に認定されたものです。ですから婚姻を解消すれば、二人はまた他人に戻ります。最近は、日本でも離婚は珍しくなくなりました。そういうわけで、夫婦の間で起こる文化の衝突の問題は、二人がもともと他人であったことから生じる問題ですから、それらは自分と関わりのあるすべての隣人との間に生じる問題とも共通点があると思われます。

具体的な問題に入る前に、「隣人」とは誰のことかを考えてみましょう。それは文字通りには「となり(または近所)に住む人」のことです。しかし多くの場合、文字通りの意味よりも、「自分と関わりを持つ人」や「自分が関心を持つ人」のような意味に使われます。特に現代のグローバル化した社会に住む人々にとっては、後者の定義のほうが受け入れやすいと思われます。なぜなら、コミュニケーション技術のめざましい発展の結果、今日では世界中のあらゆる人々とのコミュニケーションが可能になってきたからです。そして「隣人」という語句と結びつけて、新約聖書の中の、よく知られる「善きサマリア人」の話を思い出す人も多いのではないでしょうか。それは次のような話です。

あるときナザレのイエスは、ユダヤ教の律法学者から「私の隣人とは誰ですか」と問われ、一つの譬え話によって、その人の隣人とは誰かを説明しました。その個所を聖書から引用します(注)。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこでイエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカによる福音書10:30-37<新共同訳>)

この譬え話はクリスチャンだけでなく、「隣人とは誰か」を考えるすべての人々になるほどと思わせる話です。以前の中学校の英語の教科書には、この話をリーディングのテキストとして取り上げたものもありました。この聖書の話で注目したいことの第一は、「私の隣人」には国籍や民族は関係がないということです。追いはぎに襲われたこの「ある人」は、どこの国の誰かは書かれていません。たぶんユダヤ人でしょうが、はっきりとは分かりません。つまり何びとであろうとかまわないのです。私の隣人となる人の民族や国籍は、隣人である資格とは何ら関係がないのです。

第二に注目すべきことは、「私の隣人」とは初めから隣人として決められているのではなく、追いはぎに襲われた人を見て憐れに思ったサマリア人のように、自分の意志によって関わりを持つことを決めた人のことです。イエスはその律法の専門家に、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言っています。つまり、隣人とはあらかじめ決められている人のことではなく、自分が積極的に関わりを持とうとする決意をしたときに、はじめて「私の隣人になる」ということです。一方、このサマリア人の前にその場所を通ったユダヤ教の祭司とレビ人は、追いはぎに襲われた人を見たけれども、関わりを持つことを避けました。なぜ彼らがそうしたのかここには書かれていませんが、とにかく助けようとしなかったのです。二人ともユダヤ教の律法には詳しかったはずなので、そういう場合にどうすべきかの規則(申命記22:4参照)は知っていたと思われます。彼らはサマリア人のような「憐みの心」を持っていなかったのです。それで、見て見ぬふりをして通り過ぎてしまいました。

最後に注目すべきことは、この話を理解するためにはクリスチャンである必要はないということです。なぜなら、これは地上のあらゆる人々に共通する価値観に基づいているからです。つまり、「私の隣人とは誰ですか?」という問いに対して、誰もが「あなたが主体的に関わりを持とうとする人または人々のことです」と答えることができるのです。ついでながら、聖書は別の個所で、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7:12)と言っています。これは黄金律(golden rule)と呼ばれる普遍的な道徳律と考えられています。

しかし、この黄金律を現代の世の中でそのまま適用することは必ずしも容易ではありません。さまざまな壁にぶつかります。たとえば、自分に敵意を持った人たちと関わるとき、この道徳律は有効でしょうか。一部のクリスチャンはこの黄金律はあらゆる場合に当てはまると考えるかもしれません。しかし多くの人は、自分を憎む人、あるいは敵意を持つ人と向き合うときには、どうしたらよいか分からないというのが普通でしょう。私たちのここでのメインテーマは「文化の衝突」ということでした。二つの敵対する文化が衝突するとき、私たちはどのように対処したらよいのか―これが私たちの考えるべき次の課題です。

(注)これは有名な譬え話なのでよくご存知の方も多いでしょう。簡単な注釈にとどめます。(1)ここでイエスに質問した「律法の専門家」とはユダヤ教のラビ(教師)のことで、この時代のラビたちは細かい律法規則についての議論に熱中していました。彼らは律法の精神を置き去りにして、「安息日に許される行為の範囲」などの形式的な細則の取り決めに没頭し、その実行を人々に強いていました。(2)「サマリア人」はユダヤ人と異民族との混血民族で、イエスの時代のユダヤ人は彼らを劣等な民族として嫌っていました。旅をするときにも、彼らは遠回りをしてサマリア人の住む土地を避けて通るほどでした。しかしナザレのイエスはサマリア人の土地をしばしば通り、そこで伝道もしています。この話の中の善き隣人がユダヤ人の憎むサマリア人であったことに、この人の行為が民族や国家を超えた普遍的価値に基づくものであることを示しています。(3)追いはぎに襲われた人を見捨てて立ち去った「祭司とレビ人」はいずれもユダヤ人で、「祭司」はユダヤ教の指導的立場にある人、「レビ人」はレビを祖とするイスラエル12支族の一つに属します。彼らは祭儀をつかさどる人たちでした。