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蟷螂の斧 ⑩ メディアのいつか来た道        

5.いつか来た道へ戻らぬために

 “この国のあり方を変える”といわれる一束の「安全保障関連法案」が、おととい衆議院で強行採決によって可決され、参議院へ送られた。

 「これまで歩いてきた道」を歩き続けるのか、それとも、「いつか来た道」へもどるのか、あるいは
「第三の道」を探るのか、多くの国民が、今この国は分かれ道に立っていると感じているだろう。

 三叉路の入り口に立つ案内板では、「いつか来た道」には、危険という標識がはってある。この道を歩いて多くの先達が悲惨な目に合っているので、あえてこれを選ぶ人は多くはないだろう。そこで、慣れ親しんできたこれまでの道を辿ろうと思う人が多数を占めるのだろうが、中には、周囲の状況を見渡すと、この道は少し先で袋小路になっているのではないかという危惧を持つ人もいる。そうなると、「第三の道」にひきつけられる人も出てくる。こうした中で、安倍政権が国会に提出し、衆議院で強行採決した「安全保障関連法案」は、第三の道への入り口を示しているように見えるが、実は先の方で「いつか来た道」へつながっていると私には思える。

 衆議院での審議を通じて私が最も気にかかったのは、安倍首相の質問にまともに答えない態度である。国会議員の背後には彼らが代表する国民がいることを忘れているのではないか。特に武力行使の機微に触れる質問には「手の内を見せることになるから答えられない」とか「相手国があるから明らかにできない」とはぐらかした。これでは軍機に触れることは一切、まかりならぬとした戦争中の軍部と本質的にかわるところはない。また、イラク派遣自衛隊の活動記録の提出を求められると、ほとんどがまっ黒く塗りつぶされた資料を出してきた。もし日本が戦争に巻き込まれ、自衛隊員が戦死することにでもなれば、集団的自衛権に関する重要な情報はすべてブラックボックスの中ということになるのは必定である。それをこじ開けようとすれば、特定秘密保護法による懲役10年が待っている。かくして国民は事実を知らされず、事実によって判断することもできず、権力の思うままにひきづられて行く。私が生きて来た軍国日本を思い出すまでもなく、軍事優先の国家がたどる必然の道なのである。

 いつか来た道へ戻らぬためには、手遅れにならないうちに三つのことが必要ではないかと私は考える。

 第一は、第2ラウンドの参議院で、野党側が徹底して「安全保障関連法案」の違憲性を追及することである。安保法制の些末な技術的齟齬をあげつらうことに終始すれば、安倍政権の土俵にひきづり込まれる。膨大な法案の中には、どこかに憲法と相いれず政策的にも整合性を欠く決定的な瑕疵があるはずだ。安保法制に反対する有識者の知恵を集め、それを抉り出し、国民の代表として徹底的に追及してもらいた。だが、土俵を一方的に拡げられたうえ、腰の定まらない野党もあることから、結局数で押し切られてしまう公算が強い。そういう結果に終わるとしても、徹底した、かつドラマティックな審議の過程と強行採決は安倍政権の危険性を有権者に焼き付け、来年の参議院議員選挙に反映されるだろう。参議院議員選挙の敗北は時として政権の命取りになる。少なくとも、自民党政権がもくろむ次のステップ改憲の日程にブレーキをかけることはできる。

 第二は、民主主義の基盤である言論の自由が、前回、前々回指摘したように、様々な形で脅かされている現在、言論の自由に一義的に責任を負うべきメディア、特に新聞が、安倍首相から「メディアはもっと勇気をもて」と煽られているような情けない状況を脱し、覚悟を決めて暴走する安倍政権と対決する姿勢を明確にすることである。軍事優先の国ではメディアの生きる道はないという歴史の教訓を忘れないで欲しい。一方NHKは言論機関ではないので、独自の主張を打ち出すことはできないが、民主主義国家のあり方について今ほど国民の関心が高まっている時はないから、徹底的な議論の場を提供してもらいたいと思う。国民に考える場を提供し、国民を結びつけるのは公共放送の重大な使命なのである。(マイケル・サンデル)

 第三の手段として、憲法の番人としての司法の役割に期待したいところだが、日本には憲法裁判所がない。その代り、最高裁判所に違憲立法審査権が与えられているのだが、これが一向に機能していない。かつて、「警察予備隊(自衛隊の前身)違憲訴訟」とうのがあったが、最高裁は具体的な事件にかかわる訴訟ではないとして門前払いを食わせた。また、「砂川事件」以後の具体的事件についてはいわゆる「統治行為論」を持ち出して政府の裁量権を無制限に認め、違憲立法審査の役割を放棄している。これでは民主主義を担う手続きとしての三権分立は成り立たないと私は思うが、今のところどうしようもない。憲法改正では、違憲立法にかかわる憲法81条の改正も重要課題だと考える。

 従って、民意を全く反映していない違憲もしくは違憲状態とされる国会が、機能しないのなら、安全保障関連法案を廃案に追い込むためには、カウンタ―デモクラシーの力が必要になる。国連憲章の集団的自衛権についても、最高裁の砂川事件判決にしても、更には歴代法制局長官の憲法解釈にしても、安倍政権と自民、公明の与党が、みずからに都合のよい部分のつまみ食いや、牽強付会な解釈など手前勝手な説明に終始していることにいらだちを募らせている国民が多いことは各種の世論調査から明らかである。NHK,朝日新聞、毎日新聞の世論調査では、安倍内閣の不支持率が支持率を上回った。安全保障法案については、ほとんどの調査で「審議は尽くされていない」が多数を占めている。そもそも11の法案を一括して審議するという乱暴なやり方に問題があったのだ。いくら審議時間をかけても、国民が理解することは不可能だろう。

 戦争を体験し、敗戦によって目覚めた私たち世代の人間には、このまま座視すれば、悔いを千載に残すだろうという思いがある。 私の知人に小学生の頃学童疎開を体験した元小学校の校長先生がいる。「4人の孫たちが戦争に駆り出され、殺したり、殺されたりするようなことのない平和な時代を残してやることがせめて祖父としての責務のようの思う」と既に何回も国会デモの参加している。国会デモの映像を見る限り、年配の人達が多く、自分が銃をとることになる青・壮年の参加者があまりいないように見受けられる。デモに参加すれば、否応なく、自分が何故ここに立っているのかをより深く考えざるを得なくなる。私は先日86歳になった。55年前の夏、安保反対の国会デモを取材し、生涯のテーマを決めるような体験をした。デモ隊の激しい投石と警官隊の催涙弾が飛び交う中で、同胞相打つ悲劇を深く心に刻んだ取材チームの大方は既に世を去った。老残の身でデモに参加できないことが口惜しいが、安保闘争の時のような荒れ狂うデモではなく、静かで、しかし決然としたカウンター・デモクラシーとしてのデモが国会を取り巻く映像を見て、冥途の土産にできたらと思う。

 ピンチはチャンスでもある。カウンタ-・デモクラシーの高揚によって、違憲国会の暴走を阻止し、独善的暴走政権を退陣に追い込めれば、占領軍に与えられた民主主義が、本当に国民のものになるチャンスにかわるかもしれない。(M)

* deja-vu : 既視感
* counter democracy:代議制民主主義の不備を補うもの
* 「公共放送の未来を考えよう」:マイケル・サンデルの白熱教室 (2015-5-23)
* デモで政治は変わるのか: 朝日新聞世論調査(2011-12-30)
  「デモに政治を動かす力があると思うか」「ある 44%」
* 社会を変えるには: 小熊英二 講談社現代新書 

* 次回は、< 「いのち」使い捨て社会からの脱却 > 8月1日(土)