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英語でも他の外国語でも、自分の母語以外の言語に習熟するためには、長期にわたって動機を維持して学びを継続し、習熟の段階では、ある期間他の学びを犠牲にしても集中的に全エネルギーをそれに注ぎ込むことが必須です。そして学びの動機を支えるのに重要なのが必要度であると言われています。必要度とは、自分にとってその言語を学ぶことがどれだけ必要かということです。必要度が高いときは学びに成功する確率が高いのに対して、必要度が低いときには学びへの集中力を欠き、結局は失敗に終わることが多いということです。このことは私たちの多くが経験するところです。

そこでまず、日本人の英語の必要度はどの程度のものかを見てみましょう。世間の風評では、英語は非常に必要度が高いと考えられています。英語を使えないと、これからの世の中ではいろいろと不利になるというのです。しかし本当にそうなのでしょうか。今年出版された寺沢拓敬『「日本人と英語」の社会学』(研究社2015)によると、複数の社会調査の結果を統計的に処理して分析したところ、ある調査では「英語をほとんど使う機会はない」と答えた人が85.9%であり、別の調査では「過去1年間に英語をまったく使ったことがない」と答えた人が58.4%であったということです(注)。これらの数値をそのまま鵜呑みにすることはできませんが、日本人にとっての英語の必要度は、世の中の一般の人々が考えているほどには高くないと言えます。半数以上の日本人は、実際には、英語を使用する機会も必要もないのです。

風評に踊らされているのは世間だけではありません。わが国の文科省が完全に風評に踊らされているように思われます。2020年の東京オリンピック開催が決まるや否や、文科省は待っていましたとばかりに「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」なるものを発表し、2014年の有識者会議でその推進を決めました。その実施計画は、東京オリンピックの年に小学校3年生から英語を導入し、5年生からはそれを「教科」とすると宣言しています。そして高校卒業段階では、英検2級~準1級程度以上の英語力を目指すというのです。これは明らかに、2020年の東京オリンピック開催の機運を利用して、安倍首相の諮問機関である教育再生実行会議の提言を一気に実現させようという、きわめて政治的な意図をもった実施計画です。それがいかに展望に欠けた即席の計画であるかは、それが2013年4月に中教審から答申のあった「第2期教育振興基本計画」の中にはまったく触れられていないことでも明らかです。

そのような視点に立つと、文科省の作成したこの「英語教育改革実施計画」なるものは、根本的に間違っている疑いがあります。それは第一に、学習者の必要度の実態を無視していること、第二に、一部の英語能力の高い者たちだけを利する計画なので、他の大多数の一般学習者を排除する結果を生むことになるからです。それをそのまま実行に移すならば大きな失敗に至る可能性があります。最悪の場合には、近い将来において、日本の英語教育が再び立ち直ることができないほどの壊滅的状況に陥ることも考えられます。そういう事態を防ぐためには、全国各地のそれぞれの地方教育委員会・学校・教師が、文科省の教育政策を批判的に捉え、長期的視点に立って、学習の当事者である児童や生徒の個性を尊重し、彼らの自律的な学びの態度を養うような指導を着実に実施することが求められます。

ここで個々の生徒の学習に視点を移しましょう。まず中高生の学びを見てみます。多くの中学生が感じている英語の必要性は、現実には、高校受験です。そこではほとんど常に英語が入試の主要科目と考えられていて、英語がある一定のレベルに達しないと学力の高い高校には入れません。そして次の高校段階においては、学びの動機は大学受験になります。自分の希望する大学に入るためには、多くの場合一定の英語の学力が必要だからです。大学生になると、こんどは彼らの動機は就職に左右されます。つまり、英語を必要とする職業に就きたい者は英語の必要度を強く感じ、英語の学びに大いに動機づけられます。他方、そういう必要性を感じない職業を選ぶ者は、英語の学びの必要度をほとんど感じなくなるわけです。こうして大学生の英語の学びは、就職活動という観点からほぼ二分化されているようです。このようにして、日本の中学生、高校生、大学生の多くは、受験という外部から与えられる必要性に追いかけられながら英語を学んでいるというのが実態のようです。

受験の必要性が英語の学びを支えていることには、動機づけの観点からはプラスの面もあります。その必要から動機づけられる者が多いと考えられるからです。しかしこの動機づけには問題があります。問題は、彼らの動機が内的なものではなく、外からの刺激によって左右される外的なものだということです。日本人全体の英語使用の必要度がそれほど高くない(半分以下)という現実からすると、学校における英語教育を実用的なコミュニケーション能力だけに限定するのは正しいことではありません。これまでの英語教育で重視してきた人間教育としての教養的な面も含めて、そこに潜在する多様な価値を尊重することが重要です。英語が実際に使う機会がなくても、英語を学ぶことによって得る有益な経験や知識はいろいろとあるからです。個々の生徒にとって重要なことは、英語を学ぶことが楽しいことであり、そのために使う時間が自分の人生にとって有益だと知ることです。ですから学びの価値と必要性は多様です。また多様であるべきです。それは結局のところ、学習者自身が日常の学びの中から見つけ出すものなのです。

たとえば本を読むことが好きな生徒がいるとします。その生徒は、英語の学びにおいても、いろいろな読み物を読むことに楽しみを見出します。しかし受験を意識するようになると、いかにしてテストで高得点を取るかが最大の関心事になりますから、自分が今一番したいこと(英語の本を読むこと)を犠牲にしなくてはなりません。受験のための学びは、一般に、短いセンテンスや文章の構造を解析し、それぞれの表現がどのような意味で、どのような場面で使われるのかを研究するという形になりがちです。時間をかけて長い英文を読んで、その内容を楽しむという形の学びは敬遠されます。したがって、そういうことに関心を持っている生徒にとっては、次々に到来する受験勉強は大きな負担になります。これは望ましいことではありません。

学校の先生方は、文科省の鳴り物入りのこの即席の「実施計画」からは距離を置き、毎日の英語の授業において、個々の生徒が学びの楽しさと必要性に気づくような指導に専念するのが賢明です。

(注)ここで沢拓敬氏の使った基礎資料は大阪商業大学JGSS研究センターによる「日本版総合的社会調査」のデータで、引用した2つの数値はそこに含まれる該当項目について必要な統計処理をして算出されたものです。