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前回の「協働(協同)」の定義を引き継いで、今回はその必要性について考えます。英語教育ではどちらかと言うと、「協働」よりも「協同」のほうが広く用いられているので、以下ではおもに「協同」を用います。前回に予告した「タスク」の内容は、協同の学びの必要性を理解し、それを実行に移すときに考えるべき事柄なので次に回します。

英語の学びになぜ「協同」が必要なのでしょうか。教師や学習者がそのことをしっかりと理解し、心から納得しておくことが重要です。そうでないと、そのような形態の学び方は長続きしません。ちょっとやってはみたが、うまく出来なかったから止めた、となります。生徒たちが協力して学びを進めて行くという授業形態は、これまでの一斉授業の形態とは大きく異なります。従来の多くの英語の授業は(たぶん英語以外の教科の授業も)、生徒が中心ではなく、教師が中心になって展開していました。教師が説明し、問いを発し、生徒がそれに答えるという形の授業でした。それは明治初期にわが国の近代的学校制度が発足して以来の伝統的な授業形態でした。高校や大学では、おそらく、現在もそのような授業が大部分を占めていると思われます。そういう講義型の授業は、大学などの大教室で行われる講義ではさほど違和感はありせんが、英語の授業では大きな問題があります。

講義型授業の最大の問題は生徒が受け身の学習態度を身につけてしまうことです。生徒は常に教師の説明を注意深く聴いて理解し、それを記憶するように求められます。そこでは生徒に必要な知識と情報はすべて教師の手に握られています。教師は自分の手にしているものを小出しにして、少しずつ生徒に咬み砕いて説明します。英語の授業の多くはテキストの理解から始まりますが、そのために必要な英語の音声・語彙・文法・意味・文化などに関する知識は膨大です。細かく説明すれば、どんなに時間があっても足りないほどです。熱心な教師ほど勉強しますから、自分の持っている知識を生徒に理解させようと必死です。教師を信頼している熱心な生徒はその説明に熱心に耳を傾け、ノートを取り、必死に記憶します。しかしそこでは、自分の言いたいことを表現するというような能動的な活動と学びは、ほとんど経験することがありません。

しかも実際には、そういう授業で教師の説明に耳を傾ける生徒はほんの一部です。昔はそういう生徒が多かったと言われますが、それは、当時の生徒たちが必要とする知識と情報の多くが学校の教師の手に握られていたからです。現代ではそうはいきません。情報はあらゆるところから容易に手に入ります。教師が熱心に説くことも、その大部分は生徒の興味を惹くような新鮮さに欠けています。ですから、ほとんどの生徒は教師の話に集中していません。居眠りをしている生徒がいます。中には弁当を食べたり、内職したり(他の教科のテキストを読んだりマンガをみたり)している生徒がいます。こういうことは小学校ではあまり見られないかもしれませんが、中学校や高校では(特に高校では)普通に見られる授業風景です。恐るべきことですが、それが現状です。

そういう授業から、もっと多数の、できればクラス全員を参加させる授業に変えるにはどうしたらよいでしょうか。それは日本でも最近とみに議論が盛んになっている問題です。そしてその解決の糸口を与えてくれるのが、「協同的学びをうながすグループ学習」なのです。そこでは数人の生徒たちがグループを作って、互いに協力してタスク(課題)を遂行するという形で授業が進行します。そうすることによって生徒たちは積極的に学びに参加し、タスクが彼らにの興味を惹くものであれば、各自の知識を活用してクループの学びに貢献することができるという満足感と楽しさを味わうことができるのです。

現在、そのような協同の学びを中心とする授業が世界各地で実行されるようになっています。日本では今も教師中心の一斉授業が普通のようですが、これはむしろ特殊な授業形態なのです。あるデータによれば(注)、数学の協同的な学びに対する生徒の好感度を調べたところ、日本と韓国の生徒が他の国々に比べて顕著に、そういう形態の学びを嫌うということです。他の多くの国々では、今や協同学習形態が普通になっていて、生徒たちもそういう形態の授業を好む傾向にあるのに対して、日本と韓国だけは例外的存在となっているというのです。これは数学だけではなく、たぶん外国語の授業もそうでしょう。

外国語の授業に協同学習を取り入れるのは、単にそれが現代に流行している授業スタイルだからというのではありません。そうすることが絶対に必要だと考えられるようになっているのです。外国語を自分の思い通りに使うことができるためには、このブログで先に述べたように、「自立」と「創造」という目標を達成する必要があります。しかし、言語能力は最終的に個人の中に結実するものではありますが、その習得過程では他の多くの人々との交わりを必要とします。生れてからずっと人とのコミュニケーションを絶たれた子どもは言語を獲得することができません。人は他の人々(言語習得の途上では特に信頼のできる他者)との交わりが必要不可欠です。教室をそのような協同的な学びの場とする工夫が現代では求められているのです。

一斉授業形態にこだわる先生方の多くは、たぶん、慣れない方法で授業を行うことに不安や抵抗を感じるでしょう。こんなにクラスの人数が多くてはどうしようもないと感じるかもしれません。一般の中学・高校の学級定員は40人ですから、4人ずつのグループを作ると10グループできることになります。それらすべてのグループを活発に活動させるのは容易ではありません。思いつきでやってみて失敗するのは当然です。生徒も慣れていないのでどうしてよいか分からず、時間を無駄にしてしまうことが多いでしょう。グループ学習を成功させるには、先生方の十分な研修と周到な授業設計が必須です。幸い、その理論を述べた信頼できる参考書がいくつか出ていますし、そのような実践を行っている学校を見つけることも難しくはないでしょう。

教師中心の一斉授業形態はすでに前世紀の遺物となりつつあります。もう遺物だと言う人もいます。現代の先生方は、できるだけ早く協同学習形態の授業を試みるべきです。そうでないと、あなたの教師としての存在意義を問われることになります。ただし、今までの伝統的授業法をすべて捨てるのは実際的ではないし、それはほとんど不可能でしょう。それに、これまでの授業にも優れた点はいくつかあります。ただ、それだけに頼ってはならないのです。これからの世界を生きる生徒たちのことを考えてみましょう。彼らは他者とのコミュニケーションの中で、自分の知識を活用する術を身につける必要があるのです。すべて新しいことを試みるには勇気が必要です。まず授業の一部にグループ学習を取り入れてみて、そこでどんなタスクをすると効果的かをご自身で研究してみてください。

(注)佐藤 学『専門家として教師を育てる』岩波書店2015.