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これまで「英語の学びと教育」というテーマで38回まで書いてきました。ここからは、主要テーマは変えませんが、視点を「教師」に移し、主に学校教師をめぐる諸問題に焦点を当てて考えてみます。

母語の学びに関しては、子どもは育ての親を中心とした自然発生的なコミュニケーション・サークルの中で、かなり自動的に習得がなされます。最近の言語習得理論では、子どもは大きな生得的な言語習得能力を所有していると仮定されています。そこでは「教師」という公的な役割を持った特定の存在は不要です。それでもほとんどの子どもは、最初の数年間で、母語の基礎を獲得することに成功します。これに対して母語習得を終えた後の新しい言語の学びにおいては、子どもも大人も共に母語における生得的習得能力をほとんど失ってしまうので、かなり人工的な教育環境の下で意識的な学びを余儀なくされます。そこでは多くの場合、指導する教師が重要な(場合によっては決定的な)役割を演じることになります。

わが国においては、現在、ほとんどの国民が8年以上の英語教育を受けることになっています。すなわち、小学校5年生から「外国語活動」という名の授業で英語が教えられ(やがては小学校3年生からとなるらしい)、中学校では英語が必修科目となります。ここまでは義務教育ですが、続いて大部分の中卒者が進学する高校でも、英語が主要科目として学ばれます。これで英語学習歴8年になります。さらに、高校卒業者の約半数が進学する大学においても英語の学びは継続します。かくて日本人成人の多くは、8年またはそれ以上の歳月にわたって英語を学ぶことになります。にもかかわらず、これまでのところ、多くの人々はその努力の末に得られる結果に満足していません。「聞く・話す・読む・書く」のいずれの技能においても、実用の観点からはほとんど使い物にならない、中途半端なところで終わってしまうからです。しかも、小学校での英語の学びにどれほどの効果があるかはまだ分かっていません。

このような結果が産み出される要因は何なのかについては、これまでいろいろと議論されてきました。たとえば、日本語とそれに基づく固有の日本文化が英語の学びの障害になっている、という議論があります。そもそも日本は島国で、長い間鎖国をしていたために閉鎖的な国民性が身についてしまっている、というのもあります。また教育制度に欠陥があるという議論もあります。第二次大戦後にアメリカ教育使節団の勧告に従って発足した6-3-3-4の制度がうまく機能していない、もっと柔軟な教育制度に変えるべきだというのです。今の制度では子どもたちは中学受験、高校受験、大学受験という相次ぐ受験戦争に巻き込まれて、落ちついて本来の学びに専念するいとまがない、というのです。そういう声に応じて、すでに報道されているように、小中一貫校や中高一貫校が全国に多数設置されつつあり、受験生と父母の人気を集めています。

また当然のことながら、日本の英語教育の内容と方法が時代の要求に合致していないという議論があります。特に高校の英語授業には、明治以来の文法訳読法(Grammar Translation Method)を中心とした英語教授法がいまだに根強く生き残っています。英語教師の中には、今もこの伝統的教授法を積極的に支持する人も少なくありません。これが本当に時代遅れの「悪しき伝統」なのかどうかは議論のあるところですが、話し言葉を中心としたコミュニケーション能力の育成を目指す現代の英語教育からは敬遠されることになりました。旧文部省および現文科省は先頭に立って「コミュニケーション能力」を育成するという目標を掲げて、訳読法を英語の授業から一掃しようとし、学習指導要領の改訂ごとにその意図を鮮明にしてきました。

しかし何もかもが文科省によって決められているわけではなく、実際の指導における教師の裁量は決して小さなものではありません。子どもの学びに直接かかわるのは教師であり、文科省がどんなに細かく教育内容を指定しても、学校で実際に行われる授業を完全に支配することは不可能です。たとえば、前回改訂された高等学校学習指導要領において、「授業は英語で行うことを基本とする」という文言が挿入されて侃々諤々の議論をよびました(注)。しかし常識的に考えて、これを文字通りに授業で実践するのは容易ではありません。その使用の範囲と程度は授業の目的によって異なるものであり、一概に決められるものではないからです。授業でどのように英語を使用するかは、指導する教師が考えるべき問題です。そもそもこのような指導の細部に関する事項を学習指導要領で規定しようとするのは無理なことです。この文言には文科省の焦りが感じられます。

授業がどのように進められるかは基本的に教師の手の中に握られています。生徒にとっては、どんな教師にどのように教わるかは、英語習得の決定的要因となる可能性があります。それだけに教師の責任は重大です。よくあることですが、教師の中には「発音には自信がない」と平然と言う教師がいます。むしろそのように告白する教師は良心的な人で、自信がないのにある振りをする人のほうが悪質かもしれません。すでに本ブログで述べたように、日本人の英語発音がネイティブの発音と違うことは一向にかまいません。世界に広く通用する発音であればいいのです。しかし中学校や高校の英語教師が自分の発音に自信がないというのはあってはならないことです。そういう人は生徒に英語を教える資格がありません。ただし付け加えますが、全ての人はどのような言語の発音でも、努力すれば、自信が持てる程度のレベルに達することは可能です。そのように努力することは教師の責任です。

(注)「授業は英語で行うことを基本とする」という学習指導要領の文言は次のコンテキストで使われています。

「4.英語に関する各科目については、その特質にかんがみ、生徒が英語に触れる機会を充実するとともに、授業を実際のコミュニケーションの場面とするため、授業は英語で行うことを基本とする。」(2009年3月9日文部科学省告示による改訂高等学校学習指導要領 第3款 英語に関する各科目に共通する内容の4)