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教師はかつて「教えること」の専門家であると考えられていました。ですから、優れた教師とは授業の上手な人でした。しかし最近になって変わってきました。教師は「教えること」よりも「学ぶこと」の専門家であると言われるようになったのです(注1)。その理由にはいくつかあります。

第1に、20世紀の終わり頃から今世紀初めにかけて、世界の学校教育が、教師の授業を中心とする「教えるシステム」から、児童や生徒の学びを中心とする「学びのシステム」へと変化したことが挙げられます。筆者はかつて『子どもの「学びパワー」を掘り起こせ:「学び」を優先する教育アプローチ』(注2)という、先駆的な内容の訳書(原著1970年、訳書2003年)を出しましたが、この本の原著から訳書の出版までの約30年間に、世界における学校教育が「教えるシステム」から「学びのシステム」への大転換がなされたと認識しています。ただし、この点では日本の教育改革はかなり遅れており、現在はまだ大転換の途上にある、または始まったばかりである、と言ってよいかもしれません。とにかく、世界の学校教育はそういう方向に変化してきた、または、変化しつつあることは確かです。

教師が教える専門家から学びの専門家へと転換した第2の理由は、これはより根源的な事柄ですが、現代社会が高度な知識を必要とする社会へと変化したことです。あらゆる知識がより高度になり、複雑になり、流動化してきました。昔の英語の先生は、与えられた教科書の内容を理解し、それを分かりやすく生徒に説明できればよしとされました。筆者が教育実習に行った時代(1950年代)がそうでした。次の授業で扱うテキストの範囲があらかじめ決められており、実習生はその個所を下調べし、どのように授業を進めるかを考え、指導案を作成すればなんとかなりました。もちろん経験不足のためになかなか計画通りにはいきませんでしたが、ほぼ計画通りに進んだときにはうまくできたような気がしたものです。その授業を受ける生徒がどのように学ぶかなど考えたこともありませんでした。これなら自分にも教師が務まるかなと思ったものです。

しかし現在はそうはいきません。教師が理解している知識を生徒に伝授するだけでは授業は成立しないのです。そもそも知識というのは、教師や教科書から与えられてそのまま記憶するものではなく、生徒自身が主体的に自分の中に創り上げていくものだと考えられるようになったのです。たとえば英語の発音は、以前は教師の発音を真似ることによって習得するものだと考えられていました。しかし現在ではそうではありません。真似ることは学びの始まりにすぎず、生徒の側の主体的な活動によって、英語特有の音韻システムを自分の中に創り上げていくものなのです。教師は自分自身が行った発音の学びの経験を内省し、客体化し、その経験的知識に基づいて、それぞれの生徒の学びを側面から援助する役割を持つのです。

単語もそうです。これまで多くの教師は、英語の語彙はひたすら丸暗記するものだという偏見にとらわれていました。自分もそのようにして習得したと誤解していたからです。しかし大切なことは、ただ暗記をすることよりも、どのようにして記憶したらそれぞれの単語が使えるようになるかです。最近の言語心理学の知見によれば、語彙の学びは教師や辞書から得られる出来合いの知識を単に記憶して集積するのではなく、それぞれの生徒が自分の言語経験を通して主体的にその意味や用法を発見し、自分の脳の中に一つの統合的な語彙システムを創り上げていくプロセスだとしています。こういうことが最近の心的語彙システムに関する研究によって少しずつ分かってきました。教師はそのような研究に興味を持ち、自分自身の英語語彙習得プロセスをもっと内省的に精密化することを学ばなければなりません。これまでのように「単語は暗記だ」と言うだけでは、これからの教師は務まらないのです。

英文法に関しては、これまで多くの英語教師がこれに興味を持ち、日本においては他のどの分野の研究よりも成果を挙げてきました。これはおそらく、多くの日本人教師が自分自身の文法的な気づきについて内省に導かれ、その研究成果が英文解釈法や英作文法などの優れた実用的な著作を産み出してきたからでしょう。筆者が愛用した(現在も時々参照することがある)江川泰一郎の『英文法解説』など、初めは受験参考書として執筆されたと聞いて驚いたものです。こういう優れた文法解説書のおかげで、中学・高校にも英文法を教えることを得意とする先生がたが至る所におられます。最近のコミュニケーション優先の教育のおかげで、英文法が授業で日蔭者扱いされている感じがあります。これは残念なことです。もちろん、以前のように文法だけ教えればよいわけではありません。しかし昨今のように、教師の最も得意とする技を封じ込めるのは賢明とは思えません。

そういうわけで、教師が「学ぶこと」の専門家となるためには、自分自身の学びを内省するだけではなく、現在行われている英語の学びに関係する多くの研究分野――たとえば、子どもの言語習得研究、第二言語習得研究、言語心理学、脳科学、コミュニケーション理論など――から学ぶことが必要になります。生徒の学びを適切に援助するためには教師が自分自身の経験を吟味することが重要ですが、それだけでは独善的になりがちです。他の人々の経験からも学ぶ必要があります。その最大公約数的知識を得るには、英語教育に関連するさまざまな分野の研究成果から学ぶのが手っ取り早いのです。教師が知らなければならない知識の量はこの30年間に飛躍的に増大しました。「心理言語学」(psycholinguistics)という学問が生れたのは1960年前後ですが、そのとき「第二言語習得研究」(second language acquisition research)というような研究分野はまだ存在しませんでした。教師が学びの専門家となるためには、とにかく膨大な知識を必要とする時代になっているのです。

(注1)「教える教師」から「学びの教師」への転換について述べている優れた入門書として、佐藤学『専門家として教師を育てる―教師教育改革のグランドデザイン』(岩波書店2015年)があります。これは英語教育に関する本ではありませんが、現在の日本における教師教育全般がいかに早急の改革を必要とするものであるかを明らかにしています。「あとがき」の中で著者は次のように述べています。「・・・日本の教師の学歴水準は世界最低レベル、専門家としての自律性や地位も世界最低レベルに落ち込んでいる。しかも、学校はこれまでになく疲弊し、教職生活は多忙化し、ドラスティックな世代交代により、向こう10年間で日本の教師の4割以上が入れ替わる状況を迎えている。今、改革を実現しない限り、その影響は向こう50年に及んでしまうだろう。本書を執筆した動機はこの切実感にある。」

(注2)原著はCaleb Gattegno, 1970. What We Owe Children: The Subordination of Teaching to Learning. Educational Solutions, Inc. New York. 訳書は2003年茅ヶ崎出版発行で、現在は絶版。