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生物学者である福岡伸一氏の短いエッセイが新聞に連載されています(朝日新聞毎木曜日朝刊「福岡伸一の動的平衡」)。その中に「『DNAとは』では伝わらぬ科学」と題する文章がありました(2月4日版)。その要旨は、「DNAとは」というような言い回しで始まる説明は、語り手はそのことを熟知した者として、必然的に上からの目線で話すことになり、啓蒙的な(時として高圧的な)口調になるというのです。福岡氏は初めてスキー・レッスンを受けたときの経験を述べ、インストラクターが「なんでこんな簡単なことが伝わらないのかな」という顔をするのを見て、「それはあなたがどのように上達したのか、そのプロセスをすっかり忘れてしまっているからでしょ」と心の中で思った、と述べています。そしてこの文章を次のような言葉で結んでいます。

「科学も同じ。 “とは” の前にある術語や概念に、人間が到達したプロセスこそが、時間軸に沿って丁寧に語られなければならない。DNAの属性を説明するのではなく、細胞の中に見つかった酸性の糸の役割と構造が解かれていく、その切実な道程が跡づけられたとき、初めて科学は皆のものになる。つまり科学の最終的な出口は言葉なのだ。」

これは私たちの英語教育も同じ、と言えるのではないでしょうか。つまり、学びのプロセスを大事にする教育ということです。私たち教師は、「なんでこんな簡単なことが伝わらないのか」と生徒を非難したくなることがあります。しかし、「それは自分がどのように上達したのか、そのプロセスをすっかり忘れてしまっているからではなかろうか」と反省してみるべきなのです。教師自身もかつて学びの途上でいろいろな壁にぶつかってどうしてよいか分からず、先生に質問しても納得のいく説明をしてもらえず、自分で試行錯誤しながらくっついていくというような経験をいくつもしたはずです。そういう自分の学びのプロセスを論理的に分析してみようと考えるところから教育の科学が生れます。

筆者にもそういう試行錯誤の経験がいくつかあります。その一つ、中学4年のときでした。戦争が終わって2年ぶりに学校の授業が始まったとき、英語の音読がうまくできずに悩んだことがあります。何とか先生のように読めるようになりたいと思いました。しかし自分の問題点が何であるかが分からず、そのために先生に直接訊くこともできず、試行錯誤しながら自分で教科書の音読を試みました。音読の上達に必要な気づきは、音の出し方、続け方、リズムやイントネーションなどに関して山ほどあります。繰り返し音読しているうちに、それらについて少しずつ気づくことがあり、その一つ一つを自分のものにしながら根気よく続けているうちに、1年くらい経って、やっと自分で満足できる程度に読めるようになったのでした。

今から考えると、あのとき先生に音読をチェックしてもらっていたら、あんなに苦労せずにもっと速く上達したのではないかと思います。だからと言って先生を恨んでいるわけではありません。優しい先生で、魅力的な音読をなさいました。だから私は先生のように読めるようになりたいと心から思ったのです。しかし先生はご自身の音読訓練の経験を分析して生徒に分かりやすく話すことまでは考えておられなかったのでしょう。福岡伸一氏のスキーの先インストラクターのように、ひたすらモデルを示すだけでした。筆者の著書の一つ、『英語コミュニケーションの基礎を作る音読指導』(研究社2004年)は、音読指導に苦労されている英語の先生方を援助したいという願いを込めて書いたものです。

語彙の学びについてはどうでしょうか。いかにして語彙を増やし、忘れないように記憶にとどめ、それぞれの語を自分の必要とするときに使える状態にしておくか――これは英語を学ぶ人の誰もが苦労する問題です。しかし語彙は音読よりも習得がずっと難しい。それはもっと広く深い、心の中の意味の世界に関係しているからです。一つの新しい語を覚えることは、その語の表わす意味を自分の既存の意味世界に受け入れ、そのネットワークの中にきちんと位置づけることを必要とします。そういう難しい問題を含むために、語彙習得のプロセスを説明するのは容易ではないのです。語彙習得の研究も、それが私たちの脳の中で行われるプロセスだけに、まだ充分に解明されてはいないようです(注)

語彙習得のプロセスが明らかにならなければ、決定的に有効な語彙指導の方法を見つけ出すことはできないでしょう。しかしそうだからと言って、何も方策がないわけではありません。英語の学びに長年関わってきた人は皆、それぞれに語彙の習得に取り組んだ経験を持っています。そういう経験を参考にして、これからこの困難な仕事に取り組もうとしている生徒たちに役立つアドバイスを与えることは可能ですし、ぜひそうありたいものです。その場合に先生が自分の語彙習得法を紹介するのはかまいませんが、それが唯一の方法であるかのように生徒に強制するようなのは感心しません。なぜなら、語彙の習得のプロセスはいまだ科学的に解明できないほど複雑なのですから、これが絶対と言える方法は存在しないからです。

ここでは、これまでになされた語彙習得の研究から、英語教師が心得ていたほうがよい事柄をいくつか挙げることにします。まず語彙習得の合理的説明を難しくしている理由の一つに、それがしばしば偶発的に起こるプロセスだということがあります。一度出逢っただけで覚える単語もあるかと思うと、何度出逢っても覚えられない単語があります。それはおそらく、その語が複雑な意味構造を持つためか、あるいは自分の脳の中に存在する意味体系へ受け入れる準備がなされていないためと想定されます。したがってそれぞれの単語について習得の難易を予見することはできません。

しかし語彙の習得で比較的にはっきりしている経験則がいくつかあります。第一に、個人における語彙の習得は、結局のところ、学習者個人の継続的な意志の力によることです。なんとかしてそれを自己の経験に結びつけようとする強い意志が働いてはじめて、それを記憶に留めることができるのです。第二に、意志の力は常に学びの目的や動機と密接に関連していますから、英語の語彙を増やすことが自分の人生にとっていかに重要な意味を持つかを自覚していることが重要です。英語を真剣に学んだことのある人はすべて、一つひとつの語には音形や意義だけではなく、それが使われるコンテクストがあり、それが導きだす様々なイメージやイディオロギ―の世界が広がっていることを知ります。語彙を学ぶということはそういう広大な言葉の世界と関わりがあるのです。

語彙の習得でもう一つ大事なことは、それは個人の生涯にわたって継続するものだということです。母語の場合でさえこれでよいという上限はありません。この点で発音の習得とは大きく違います。発音はいったん習得の域に達すればそれでほぼ完成しますが、語彙の学びは一生続きます。学校での英語の学びは、その長いプロセスのほんの最初の部分に過ぎません。その先には常に数万の未征服の語彙が控えています。

(注)英語語彙指導に関しては、望月正道・相澤一美・投野由紀夫著『英語語彙の指導マニュアル』(大修館書店2003年)が参考になります。日本でもこのような教師向けの語彙指導マニュアルが出版されるようになったのは歓迎すべきことです。しかし第2言語や外国語の語彙習得のプロセスに関しては、本書でも言及するように、現在のところほとんど何も分かっていないとうのが実情です。今後この分野の研究の進展が望まれるところです。