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生徒の英語の学びの目的は多様です。そして目的によって、学びの目標や学び方も違ってきます。文科省が告示する学習指導要領も、その点は承知の上で作成されています。その総括目標には、小・中・高とも、「外国語を通じて、言語や文化に対する理解を深め」と「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り」が含まれています。けっして「コミュニケーション能力を養う」だけが目標ではないのです。しかし最近の文科省のやっていることを見ると、学校の英語教育はまるでコミュニケーション能力を養うことだけが目標で、それ以外の英語の学びはほとんど念頭にはないようです。日本人が英語を学ぶことによって得ることのできる価値が、コミュニケーション能力のほかにも多々あることに、世の人々も文科省も、もういちど気づくべきです。

文科省が英語コミュニケーション能力の育成にこだわる理由は、官僚たちが自分たちの立場上の利益のために、声の大きな政治家や国民の一部(成功した企業人や英語至上主義の学者など)の声のみに耳を傾け、英語教育の実態をよく知っている専門家の声や、真面目な実践を行っている英語教師たちの声を無視するからです。最近の文科省は学校や教師を対象としてしきりに実態調査をしますが、官僚たちの多くは教育実践の経験がないので、その結果を正しく解釈して改善策を練り上げることができません。昨年公表された高校3年生を対象とした技能別英語力調査では、約8割の生徒が中学生以下の英語力しか持たないことが明らかになっても、文科省のやることは「生徒の英語力向上推進プラン」なる机上のプランを立て、学力調査の名のもとにテストまたテストで教師と生徒の尻を叩くことだけです。こうして日本の教育行政は、英語教育に関して誤った前提のもとに、誤った政策を強引に推し進めることによって教育の混乱を増大させているだけではなく、国民教育の将来を危ういものとしています。

文科省だけではなく世の中の多くの人々も、学校を出てすぐに役に立つような英語を教えろと言いますが、それはそもそも無理な話なのです。英語は日本人にとって外国語ですから、どんなに頑張っても、高校までに基礎段階を固めることまでしかできません。そのことは、明治以来百年以上にわたる英語教育の経験がすでに証明しています。日本の学校を出てすぐに英語を思い通りに使える人はいないのです。文科省が高校卒業時までに取らせたいとしている英検準2級などは、正直なところ、とうてい実用と呼べるレベルには達していません。留学でもしない限り、大学を卒業してもまだ不充分です。このブログで再々述べてきたように、週に3時間か4時間の学校の授業だけではどだい無理なのです。英語を学び始めたときには新鮮な楽しみを感じても、やがてそれがいつ果てるとも分からないハードな訓練を必要とする教科であることを知って、多くの者が途中で落伍するというのが実情です。世の人々も文科省も、まずこの事実をしっかりと見極める必要があります。

おそらく、国策として10%か20%のエリートを養成することも必要なのでしょう。文科省はそういう生徒たちのために「スーパーグローバルハイスクール(SGH)」という大げさな名前の付いた高校を各地に作って宣伝しています(注)。しかし残りの80%~90%の生徒はどうするのでしょうか。英検準2級を目標にその者たちの尻をひっぱたくこと以外に名案はないのでしょうか。彼らの多くは英語の学びの途上のどこかで躓き自信を失った生徒たちです。尻をひっぱたくだけでは成功の見込みはありません。多くの者はますます自信を失うだけです。しかも目標とするのが英検準2級では、たとい到達できたとしても実用にはなりません。文科省は、どのようにしたら彼らが英語の学びを取り戻し、英語を学ぶことの楽しさを味わうことができるようになるかを真剣に考えるべきです。筆者の考えは、実践的コミュニケーション能力育成に偏り過ぎている現在の英語教育政策を、もっと多様な生徒の学びに対応する健全で柔軟なものに転換することです。

まず学校における英語教育の理念を考えてみましょう。それは、実用的なコミュニケーション能力を育成するだけではなく、個々の生徒が生涯を通じて自らの英語をプラッシュアップできる土台を学校でしっかりと作ってあげることです。それがしっかりできれば、実用は後から従いてきます。高校卒業生が将来どんな英語力を必要とするかは不明です。すべての人が英語を使って何かをするわけではありません。ひょっとして英語以外の外国語を必要とするかもしれません。誰が将来どんな外国語をどの程度必要とするか(あるいは全く必要としないか)、高校段階では分からないのです。それにもかかわらず、英語の基礎はすべての人に必要です。なぜなら、生徒たちは英語を学ぶことによって、日本語と日本文化だけに浸っていては決して知ることのできない広大な世界を経験することができるからです。英語はその世界への窓口なのです。

そういうわけで、少なくとも高校までの英語教育は、「英語によるコミュニケーション能力の育成」というような、特定の目的に矮小化すべきではありません。英語の学びは、生徒たちが将来どのような目的に英語を使うことになっても、また英語を使う機会が皆無であっても、人間として生きて行くために必要な知識と知性を獲得させるとともに、他国の全く知らない人々とのコミュニケ―ションを成立させる技能と心の準備を得させるものなのです。この点で学校における英語の学びは、それ自体を目的とすることができるものです。

学校における英語教育は、学習指導要領にあるように、まず「外国語を通じて、言語と文化に対する理解を深める」ことに全力を挙げるべきです。これは単にお飾りの枕ことばではありません。ここで言う「外国語」が「英語」に限られていることの可否はさておき、日本人は学校で外国語である英語を学んではじめて、自分の母語である日本語と自分の国の文化を相対化することができるのです。なぜなら、外国語を学ぶことは自分の日常使っている言語を客観的に見ることを余儀なくし、自分がどっぷりと浸かっている特異な文化を外から眺めることを可能にするからです。そういうわけで、英語や他の外国語を学んだ人は、日本語と日本文化だけしか知らない人よりも、未知の言語や文化に対して柔軟に対応することができるようになります。これは21世紀を生きるすべての日本人にとって必要不可欠な知識であり教養です。

学習指導要領に挙げられているもう一つの目標、すなわち「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成」については、すでに触れたように、英語や他の外国語を使う人々とのコミュニケーションが日本人どうしのコミュニケーションと異なることを考えると、その重要性ははかり知れません。そのことは実際に外国人と外国語を用いてコミュニケーションの経験をしてみてはじめて理解できます。そういう場を英語授業の中で経験することによって、生徒たちは外国人とのコミュニケーションがどのようなものであるかの知識を得ることができます。彼らの英語がたとい不完全なレベルであっても、これは学びの途上で随時に実行できます。この経験は、これからの世の中を生きる若い生徒たちにとって、大きな価値ある財産となるはずです。

(注)文科省は平成27年度、全国で56校の「スーパーグローバルハイスクール(SGH)」を指定しました。学校種別では国立7校、公立31校、私立18校です。また「SGHアソシエイト」として55校を指定しています。内訳は国立1校、公立24校、私立30校です。文科省はインターネット広報で次のように書いています。「急速にグローバル化が加速する現状を踏まえ,社会課題に対する関心と深い教養に加え,コミュニケーション能力,問題解決力等の国際的素養を身に付け,将来,国際的に活躍できるグローバル・リーダーを高等学校段階から育成する。」