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2009年に改訂され、2013年度から実施となった高等学校学習指導要領には、「(英語の)授業は英語で行うことを基本とする」という文言が入って物議をかもしました。実施から3年経って、現在の高校現場はどうなっているでしょうか。少しは変化が見られるのでしょうか。教師や生徒が英語の授業でどれくらいの割合で英語を使っているかを調べたものはありますが、実際の英語使用の量的または質的な変化を調べたものは出ていないようです。おそらく、文科省の方針に沿って先導を託されたスーパーグローバルハイスクール(SGH)などの教師たちは、きっと必死になって英語を使って授業をしていることでしょう。しかし実際のところ、それ以外の一般の高校では、従前とそんなに違っていないのではないでしょうか。

「授業は英語で行うことを原則とする」という文言をめぐってなされたこれまでの議論の多くは、授業で使われる英語の分量に関するものでした。たとえば、「教師は英語をどれくらい使えばよいのか」や「どういう場合に日本語を使ってよいのか」、あるいは「生徒にどれくらい英語を使わせたらよいのか」というような、極めて表面的・技術的な議論でした。少数ですが、学習指導要領に書かれたこの文言に真っ向から反対する人もいました。大学の英語教師に多かったようです。日本人に英語を教えるには日本語の知識を利用するのが効果的であり、英語を英語だけで教えるのは非能率的である、という本質論からの反論でした。しかしこの反論は、英語の授業で日本語を効果的に使用すべきだという再反論でうやむやにされてしまいました。

ここで筆者は、「英語の授業は英語で」という文科省の作成した標語は矛盾に満ちたパラドックスであると考えます。それは日本の教育行政を司る権威を持った組織が発する文言だけに、ある意味で危険に満ちたパラドックスでもあります。

「英語の授業は英語で」という文言には、一見してさほど違和感を持つ人はないかもしれません。英語の授業なんだから、英語が授業で使われるのは当たり前だと考えるでしょう。英語の教師たちにもそのように考える人が多いと思います。しかし、この文言が学習指導要領に書かれているものであることに思いを馳せると、「はてな?」と首をかしげるのは筆者だけではないでしょう。なぜなら、学習指導要領は文部大臣の名によって公示される、法的拘束力を持った文書だからです。公立学校の教員がここに書かれたことを無視することはできないのです。教員がそれを口で批判することは許されるべきことですが、それには相当の勇気が必要でしょう。まして、それに反する行為を公然と行うことは許されません。意図的にそれに反する行為を繰り返したときには処罰される可能性があります。ですから、「英語の授業は英語で」という一見無害に思える文言も、法律的な縛り文句となると危険なものになり得ます。これが第一のパラドックスです。

第二のパラドックスは、「英語の授業は英語で」と言われて直ちにそれを実行できる高校教師がどれだけいるでしょうか(注)。文科省はそういう調査をしたのでしょうか。寡聞にしてそういう調査があったとは聞いていません。英検準1級程度以上の高校教員は公立高校で55%くらいいるようですが、その程度の英語力で高校の授業を英語でできるのかどうかは全く不明です。先に書いたように、教師が授業で必要とする英語力と、英検で測る英語力とはかなり違うものです。高校の授業を英語で行うことのできる教師はそれほど多くはないと筆者は推測しています。授業力を高めるための適切な研修を実施すれば、英語で授業を行うことのできる教員はかなり増加するはずです。しかしそのためには、教育行政者と教員の多大の努力とともに、莫大な予算が必要になります。そういう裏付けなしに、この実施の困難な文言を学習指導要領に軽々に載せるというのは、危険なパラドックスであると言わざるを得ません。

第三に、たとい全国の高校で「英語の授業は英語で」が文字通りに実施されることになったとしても、日本人高校生の英語力が一斉に向上するという保証はありません。なぜなら、日本人が英語の学びについていけない最大の原因は学習時間数の絶対的な不足にあるからです。以前にこのブログで検討しましたが、中級程度のレベルを修了するのに最低2,000時間は必要とするというのに、日本の中学・高校で生徒たちが受ける授業は1,000時間にも達しません。学校の授業だけでは、高校生の大部分は中級レベルの学びに入ったところで終わってしまうのです。それはこれまで学校で英語を学んだほとんどの人々が経験して知っていることです。間もなく小学校から英語が教科として学ばれますが、それでも必要な授業時間数が確保されるわけではありません。高度の英語運用力を身につけるには、これまで通り、個人による特別な学習経験が必要なのです。そんなことを文科省の英語教育行政官が知らないわけはありませんから、「英語の授業は英語で」という文言は、意地の悪い逆説的言明としか考えられないのです。これで日本の英語教育が前進するなどあり得ないことです。

(注)学習指導要領に書かれたからといって、英語を使って教えたことのない教師がすぐに英語で授業を始められるものではありません。おそらく、英語を話すことを得意とする一部の教師たちは何かの形で実施をする(または、すでにしている)でしょうが、他の大部分の教師たちは、ほぼこれまで通りの授業を続けていることでしょう。文科省はそのような様子を知って、もっと教員の研修に力を入れなければならないと考えているようですが、それぞれの教師が実際に英語を使った授業展開を経験するというのでなければ、効果は期待できません。よくある講習会形式の研修では、日本人として例外的に英語の達者な先生方の話を聞くだけのものが多いようです。それではたいして研修の成果は期待できません。