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前回から始めたこのシリーズのタイトルを「私の英語教育時評」に改めます。ご存知のように、「英語教育時評」は大修館の『英語教育』をはじめ、他のいくつかの英語教育雑誌の主要コラムとなっています。それらと区別するためにも、ここでは「私の」を付けたほうがよいのではないかと考え、この桐英会ブログのコーディネーターである田崎清忠氏とも相談し、そのようにいたします。

さて今回は学校における教師間の同僚性(collegiality)の問題を取り上げます。同僚性とは、教師が授業の専門家として成長するために、同僚と協力しながら互いに学び合うことです。筆者は1952年に東京高等師範学校を卒業し、東京のある私立中学・高校の非常勤講師を始めたときから、最後は文教大学大学院の言語文化研究科の教授で終わるまでのほぼ50年間、一貫して教師という仕事に従事しました。その間多くの先生方と同僚になりました。今その方々を一人一人思い浮かべてみて、あの人とはうまく仕事ができた、あの人とはやりやすかったがあの人とはやりにくかったなど、同僚性についてはさまざまな感想を持っています。しかし正直なところ、積極的に同僚と学び合うような関係を築くことができたのはごく僅かで、その点で反省すべきことも多々あります。

同僚性ということがなぜ重要かと言うと、すべての教師は、自己の教師としての専門性を高め授業力を磨き上げるために、絶えず学びを必要としているからです。そのような「学び」が教師の研修のコアです。学びはもちろん一人で行うことも必要ですが、それだけでは不充分です。個性のある教師がバラバラに生徒を指導するのでは、生徒は戸惑うばかりです。昔のエリート校では個性ゆたかな教師に人気がありました。チップス先生もそんな一人でした(注1)。今日でも一部の私立学校には、そのような教師の個性を尊重する気風が残っているかもしれません。しかし現代のより民主的な学校はそうではありません。エリートだけではなく、すべての生徒に一定の学力を保障しなければなりません。特に英語の基礎づくりに関係する中学・高校の英語科では、その指導はある程度統一されていることが重要だからです。

さて教師間の同僚性を高めるためには、同じ学校または学年で、同じ教科を担当する教師たちが互いに授業を見せ合い、意見を交わし、互いに学び合うことが重要です。それを嫌がる教師は現代の教育者として失格です。同僚の中に一人でも授業を見せることを拒否するようなことがあれば、学年または学校全体の協働はうまく機能しません。同じ学科の教師たちは、ウマが合うとか合わないとかの感情的な好悪ではなく、同じ目標に向かって進む同士として、互いに授業に関する知識と技能を分かち合うべきだという論理で割り切る必要があります。自分の授業を他の人に見てもらうことによって、見せる教師は何かを学びます。そして他の人の授業を見ることによって、見る人も毎回必ずいくつかのことに気づき、それが自分の学びに結びつきます。こうして同僚間で授業を見せ合うことが、学校における望ましい同僚性を築き上げる第一歩となります。

ここで日本の教師教育の遅れについて触れる必要があります。日本の小学校・中学校・高校の教師の大部分は大学の学部卒業者ですが、教育を重視する世界の国々では、今や小学校教師ですら大学院修了者が大半を占めるようになっています(注2)。大学の学部卒では、教師の学ぶべき知識や技能が飛躍的に増大している今日では、その内容をカバーしきれないのです。日本の英語の教師も、誰もがすでに気づいているように、英語だけ知っていれば教えられるという時代ではなくなっています。1990年代からの四半世紀に、世界の教育は大きく変化したのです。日本の教育行政は、政府の経済優先政策によって教育予算をできるだけ節約するという方針を取ってきたために、今や教育に熱意を持つ先進諸国にどんどん先を越されつつあります。現在では学部を卒業して教師になっても、とうてい一人前の教師とは言えません。教師の職を得てからも、絶えざる研修が必要です。そしてその研修は一人だけで行うだけでは不充分で、学校全体(少なくとも、同じ学年または教科を担当する教員たち)が協力して、一貫した生徒指導に当たることが必要になっているのです。

そこで教師間の同僚性の質を高めるために、授業の進め方についての情報交換ができる体制を学校の中で整えることが望ましいわけです。小学校では、学級担任がクラスの主要教科を担当するのが普通です。各学年が複数の学級から成る規模の小学校では、同じ学年の教師たちが授業の進め方について頻繁に意見を交わし、優れたアイディアを共有することが必須です。また、同じ学校内の教師たちが互いに授業を見せ合い、意見を交わすという研修活動を日常的に行うことも重要です。筆者は小学校の教育事情には詳しくありませんが、現在は多くの小学校がそのような方向を目指し、また実践しているように見えます。

一方、中学校や高校はもっと複雑になります。それぞれの教師は教科の担当者であり、同時にその一部(中学校ではほとんど)が学級の担任でもあります。ですから中学・高校には教科会議と学年担任会議があって、定期的に担当教員が集まって協議する必要があります。筆者の経験では、中学校の担任会議は行事の計画や実施、また常時発生する生徒指導の問題などに多大の時間と労力を費やす必要があったので、教科会議にはあまり労力をかける余裕がなく、そのほとんどは進度の調整やアンケートの企画・集計などの事務的な処理で終わったように思います。高校では逆に教科を中心に教師が動いていて、学級担任の仕事は教科指導の合間にやっているという感じのようです。そういうこともあって、高校教師の一部に自分は教科の専門家であるという自負があり、他の教師たちとの協調を嫌う人が少なからず存在します。教員の同僚性を築くためにはそういう壁を打ち破ることが不可欠ですが、それをどう打ち破るかは多くの高校の課題となっています。しかし中学校も高校も、改革は不可避的です。

(注1)チップス先生は James Hilton (1900-54)の有名な小説 Good-bye, Mr. Chips (1934)の主人公で、伝統あるパブリックスクールの名物教師。この作品はその後戯曲化され、映画にもなりました。

(注2)IEA(国際教育到達度評価学会)が2011年に実施した数学・理科教育動向調査に関するデータによって、日本の教師教育の水準が極めて低く、憂慮すべき状態にあることが分かっています。この国際調査の対象国は67カ国で、小学校4年の算数では、国際平均で22%の子どもたちが修士以上の学位を有する教師の授業を受け、中学2年生は24%の生徒が修士以上の学位を有する数学の授業を受けています。ところが日本では、小学校4年生で修士以上の学位を持つ教師の授業を受けているのはわずか5%、中学2年生では9%しかいません。これは理科においてもほぼ同様です。ちなみに教育先進国として知られるフィンランドでは、小学校4年生で81%、中学2年生で78%が修士以上の学位を持つ教師の授業を受けています。日本は経済先進国の中ではこの点で最低水準にあり、日本よりも下位にある国々の多くは、アフリカや中東諸国などの比較的に貧しい途上国です。(上記のデータは、佐藤学『専門家として教師を育てる』岩波書店 2015 による。)