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最近の子どもは学校での内でも外でもテストまたテストで、年中追いかけられているのではないかと心配です。学校での授業の一環としてのテストは必要なものであることは誰もが理解できます。しかし学校での期末テストや進学のための模擬テストに加えて、各自の英語力を測定するための英検などの外部試験や、文科省の主催する学力調査のための一斉テストまで行われるようになると、生徒はいつもテストの点数が気になって、落ちついて学びに集中することができなくなるのではないでしょうか。もっとも、こういう点数主義教育の中にいると、テストで常に高い得点を取ることに無上の楽しみを感じる子どもが出てくることも事実です。しかしそういう生徒はごく一部で、大部分は満足な得点が取れないので、テストを受けることに苦痛を感じています。こんな教育はテストによる子どもの虐待だと非難されてしかるべきです。

先日の新聞で、大学入試では点数主義のほうが多様な人間を選抜できるという主張を読みました(注)。意外に思いましたが、いちおう筋は通っています。その論理はおよそ次のようです。

最近、文科省を中心にして大学入試を「人物をみる入試」へと転換する動きがあります。これに対してこの論者は、それは「本人の努力が届かない、育ってきた環境も含めて人を評価する」という選抜方法に転換することであり、したがって「本人の意思や努力や先生の教育よりも、家庭や周囲の環境に左右される」選抜方式であるというのです。他方、テストで合否を争う点数主義は、この論者によれば、「経済格差や家庭文化の影響を最小化し、本人の努力が反映されやすい」選抜方法であるというのです。学校の教科の中でも美術や音楽のような芸術科目は子どもの「育ち」(教育環境)の影響を強く受けるのに対して、国語や社会などの主要教科は相対的に環境に影響されにくいので、ペーパーテストという公平な競争を行うことで次世代のリーダー候補を選抜するのは、多様な人材を得る合理的な選抜方法であるというのです。

これは一見して合理的な見解であるように思えるかもしれません。しかし次の三つの観点から反論が可能です。第一に、ペーパーテストによる選抜が、資本主義経済の極度に欄熟した21世紀の今日においては、もはや公平な受験競争を保証してはいないことが挙げられます。たしかに戦後の日本経済復興途上にあった40年くらいは、ペーパーテストの得点が家庭の経済環境に影響されることは少なかったかもしれません。貧しい家庭の子どもでも学校での学びをしっかりとやり、受験参考書の何冊かをものにすれば、東大でもどこでも夢ではありませんでした。しかし現在ではそうはいきません。一流大学に入るためには莫大な資本を必要とする時代になっているのです。インターネットで得た情報によれば、東大生の約半数は親の年収(世帯収入)が1,000万以上です。そこには明らかに経済格差が反映されています。日本における貧富の格差は、子どもの大学入試にも大きく影響する時代になっているのです。

第二に、入試判定を主要科目の得点だけで行う点数主義は、あまりにも偏狭な物差しで人間を選別することです。入試の主要な目的は、入学を希望する受験生が、その大学の目指す教育目標を達成するにふさわしい能力と意欲を有しているかどうかを判定することです。より具体的には、そのための基礎能力を高校卒業時までに身につけているかどうか、そして同時に、当該大学においてその能力をどこまで発揮する意欲と可能性を有しているかを知ることです。しかし識者によってしばしば指摘されてきたように、これまでのところ、そのような目的にかなう信頼できるペーパーテストは開発されていません。何よりも問題なのは、それがペーパーテストであるという制約から、内容妥当性の問題を常に抱えているからです。つまり、テストの結果が真に測ろうとするものを表わしてはいないという問題です。

内容妥当性の問題を英語テストに当てはめてみると、その典型的なものとして発音のペーパーテストが挙げられます。そのテストで得られた結果が何を意味するのかまったく不明です。そういう指摘は多くの識者からこれまで再々なされてきたにもかかわらず、大学入試センター試験のベーパーテストからも発音問題がいまだに消えません。さらに深刻なのは、問題そのものの内容妥当性です。たとえば、センター試験の英語リスニング問題に毎年出題される、見知らぬ男女の対話を聴いて何を言っているのかを理解するというような問題(盗聴能力に関係する?)が高校修了者向けのテストとして妥当かどうか、大いに疑問のあるところです。英語の教師たちはこういうことに鈍感なようで、ほとんど指摘されたこともないようですが、こういうテストで受験生が1点を争うことにどんな意味があるのか、少し考えてみれば誰もが疑問を感じるところです。

それだけではありません。点数主義教育はさらに深刻な第三の問題をもたらします。それはマイナスの波及効果(backwash effect)です。典型的な例を挙げます。文科省は小学校6年生と中学3年生を対象に、2007年度から毎年4月に「全国学力調査」を実施しています。最初は抽出調査で学校別成績の公表は限られていたのですが、2014年度からは実質的に全国調査になり、地方教育委員会の判断で学校別成績の公表が可能になりました。そして今年の調査前に、とんでもないことが起こっていることが判明したのです。それは、学力調査に用いられた過去問題を授業で集中的に解かせるなどして、調査の点数を挙げることを目的とした取り組みをあちこちで行っているという情報があったことです。調査前の3月、4月の授業はもっぱらそんな授業が行われたという情報まであります。それで文科省は大慌てしています。さっそく都道府県の教育委員会宛に、行き過ぎた過去問題の使用を止めるように通知したということです。

これは重大問題です。しかしこの全国調査がこういう方向に進むことは最初から分かっていたことす。点数主義はすでに深く全国の学校教育の中に根付いていたからです。そのことを予想しなかったとすれば、文科省の不明は明らかです。そもそも全国一斉での実施に無理があることは最初から識者によって指摘されていました。何のための悉皆調査なのか、その目的が不明です。学力の実態を知りたいのならば、抽出調査で充分です。それを悉皆調査にしてしまった文科省の意図は、全国の教育委員会と学校を文科省の完全な支配下に置くという権威主義的目的以外には考えられません。もし文科省が現場に裏切られたと言うならば、それは自業自得というほかありません。かくて、日本の教育が今や重大な危機に瀕していることは、何人も疑う余地がありません。

(注)この記事のタイトルは「点数主義の方が多様だ」となっていて、人間環境大学副学長・芦田宏直氏に対する新聞記者のインタビュー記事としてまとめられています。芦田氏は大学・専門学校のカリキュラム開発、教員職能開発、学校経営などに関わっている人です。(『 朝日新聞グローブ180号』2016年4月3日発行)