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< 統計数字の裏に見えるもの ⑦ 出生率 >

 調査とか統計の数字は、前提条件に問題のあるものも多いから、そのまま信ずるわけにはいかないが、社会の動きを知る上で欠かせないものの一つではある。今回は出生率をとりあげる。

1.合計特殊出生率 : 1.46 (2015)
(2005~2010 国連人口推計 ) 日本 1.27 世界190位 世界平均は 2.56   
  アメリカ 2.09  イギリス 1.84 ドイツ 1.32  フランス 1.89 ロシア 1.37  中国 1.77  インド 2.76  ニジェール 7.16(世界最高) 
  * 合計特殊出生率 : 1人の女性が生涯に産むと見込まれる子供の数。2.07が人口維持ライン。 
2.希望出生率 : 1.8 
  * 希望出生率 : [既婚者割合×未婚者の結婚希望割合×現在の子供数]×離別効果係数で、 結婚したい人の希望がすべてかなった場合の出生率。地方創生会議が編み出した用語。
3.人口密度 (人/㎢): 日本 335 
アメリカ 32 イギリス 267 ドイツ 229 フランス 116 台湾 652 韓国 507 インド 393 中国 143 

 日本の人口は、江戸時代の中ごろに3000万人に達し、明治維新までほぼ同じ水準で推移した。農地細分化を避けるための長子相続制の定着、農村の貧困による間引き、都市での疫病の流行などが人口増加を抑えたものと思われる。しかし、明治維新以後の富国強兵政策によって人口は急激に増え始め,第2次大戦終結時には2倍以上の7200万人に達していた。戦後も復員による第1次ベビーブーム、高度成長下の第2次ベビーブームで人口膨張は続き、2004年に1億2784万人のピークをつけた。敗戦によって植民地を失い江戸時代と変わらなくなった狭い国土に、江戸時代の4倍もの人間がひしめくことになったのである。

 人口膨張の時代はおよそ100年あまり続いたわけだが、2004年にピークとつけたあと、一転して減少の時代に入り、今後は急坂を転げ落ちるような傾向が予測されている。高齢者らの死亡数が2005年に初めて出生数を上回って、人口は自然減に転じ、マイナスの幅は年々拡大して2040年頃にピークに達する。それに、出生率の低下が追い打ちをかける形で人口が減っていく。

 日本の合計特殊出生が2を超えていたのは40年も前のことで、その30年後の2005年には1.26まで落ち込んだ。その後やや持ち直し昨年は1.46になっているが、人口増に必要な2.07には遠く及ばない。

 少子高齢化の結果、人口構成は逆ピラミッド型になり、労働人口が減少する。厚労省の推計によると現在のおよそ8000万人が今後30年間で2000万人減って6000万人となる。労働人口が減っては経済成長は見込めないから、安倍政権は「一億総活躍時代」のキヤッチフレーズの下で、「ニッポン一億総活躍プラン」によってで労働人口の確保を目指そうとしている。

 このプランでは、子育てや介護への支援、高齢者雇用の促進、非正規労働者の待遇改善、最低賃金の引き上げと結構づくめの5つの政策で、労働者の数を2020年度に117万人、2025年度に204万人増加させたいとしている。これまで2回放った6本の矢は、いずれも的に届かずに失速しているから、このプランを信じろという方が無理だろう。

 また、このプランでは、「希望出生率」という聞きなれない数字を1.8に設定しており、内閣の大番頭である菅官房長官がTV番組で、福山雅治、吹石一恵という人気芸能人同士の結婚を機会に「ママさんたちが一緒に子供を産みたいとか、そういう形で国家に貢献してくれたらいいなと思っています。たくさん産んでください。」と発言して批判を浴びた。、この人は国際的に認められたreproductive health rightsを知らないのか、或いは知っていても、人権より“国益”が大事という政権の本音をもらしたものであることは間違いないだろう。

* reproductive health rights (性と生殖に関する健康と権利) : 1994年にカイロで開かれた国連人口・開発会議で国際的な承認を得た「女性が身体的、経済的、社会的な健康を維持し、子供を産むかどうか、いつ産むか、どのくらいの間隔で産むかなどについて、自ら選択し、決定する権利。
* 先進国の中で唯一出生率の向上に成功しているフランス(最近値は2.02)では、結婚の様態が多様化し、いわゆる婚外子が60%にのぼるという。自民党の憲法草案とはまるで整合性のない家族の多様化を認めなければ、希望出生率1.8も夢だろう。

 私などは”一億総○○”と聞くと、戦争中の”進め一億火の玉だ”とか”国民精神総動員”といった全体主義的な標語や、それに踊らされた自分を思いだしてイヤな気分になる。”国民総○○”という言葉の中に、異論を許さない国家主義的な権力の意向とそれに同調して行く一般国民の空気を感ずるからだ。

 明治から昭和にかけての「産めよ増やせよ」は帝国主義政策を遂行するための軍事力強化、つまり兵隊を増やすためであったから、男子が珍重された。私は8人兄弟で6人が男であったから、母親は“軍国の母”として表彰されたりした。しかし、母体への過重な負担が身体を蝕み、戦後は最後まで病で苦しみながら65歳で世を去った。息を引き取る際の断末魔の苦しみを私は見るに忍びなかった。

 では平成の「産めよ増やせよ」政策の目的は何なのか。”強い経済“をつくるための産業戦士の確保である。富国強兵のための戦士達は“お国のために死ね”と言われて若い命を散らして逝ったが、経済成長のための戦士達は、いつ垂れてくるのか、あるいはどのくらい垂れてくるのかも分からない成長の滴りを待ちながら、安倍政権の発足以来下がり続けている実質賃金と大企業では5割をこえる過労死寸前の長時間労働で死ぬまで働かされることになるのではないか。「資本主義の終焉と歴史の危機」の著者で経済学者の水野和夫が言うように、資本にとってのフロンティアがもはや労働者しかないのだとしたら、そして世界的な賃金の平準化が歴史の流れだとしたら、それは必然の結果だろう。私の知人の女性は、国立大学出のエンジニアだった自慢の一人息子が、連日の超過勤務の後、ある朝起きてこず、様子を見に行ったら息をしていなかったという。悲嘆のどん底に投げこまれた彼女の手紙に、私には慰める言葉もなかった。

 ところで、人口が減ることはこの国にとって、そして国民にとって悪いことなのか。私はそうは思はない。狭いけれど、自然に恵まれた風土を生かし、ゆったりとした生活を送るには、現状のままで行くと50年後に予測される8千万人程度が適正人口なのではないかと思う。この国土で、コメは800万トンはとれる。やがて必ず来る世界規模の食糧危機にそなえて、生存基盤の備えはしておかねばならない。コメが800万トン取れれば、8000万人は十分食っていける。戦後の飢餓時代を生きた私には、食い物がないことがどれほど悲惨な社会を生み出すか身に染みて知っている。どんなことがあっても「食を足らすこと」が古今東西を通じて政治の最大の義務だ。

 そのためには、1次産業を基盤とし、創造を原理としてその6次産業化をはかりつつ、追い立てられように働かされるのではなく、みんなで知恵を出し合い、自らのinitiativeで働き、成果は公正に分配する「共生社会」をつくることが必要だ。新自由主義的な競争原理がよいという人達は別の社会をつくって生活する。営利企業やその補助機関に就職しなければ生きていけないのでは、自由のある社会とは言えない。両方あって初めて選択の自由が生まれる。
*この問題についての私見は「人権大国への道で」提示した。
 
 私は保守の思想を一概に否定するつもりはないが、今のままでまったく変える必要がないというのなら論外だ。伝統的な価値観を守りながら、慎重に、漸進的に「平和・民主・人権」という人間社会の普遍的原理へむかって社会をかえていくというのでなければ、それは単なる陋習墨守主義でしかない。

 経済成長のための競争至上主義は、地球があと3つ必要なほど資源を濫費したあげく、格差を極限まで拡大し、1%の人間が90%の富を独占するという理不尽な社会を作り出した。このまま放置すれば、人類の生存を危うくするような環境破壊を進行させ、既得権を墨守しようとする人達への暴力的反抗、そして、globalizationのなかで激しさを増していく国家間のシェア争いは、世界経済の先行き不安が顕在化すれば、世界大戦を引き起こした時と同根の軋轢を生み、戦争へつながる危険を内包する。

 革命によらず、漸進的に社会を改革するには長い時間がかかる。この国の社会が進むべき方向を見定め、人口8000人の50年後を見据えて、新しいパラダイムへ向かって早くベクトルを変えることは、今生きている人間の、次の世代に対する責任ではないかと私は考えている。(M)

* 次回の< 統計数字の裏に見えるもの ⑧ GDP > は6月25日(土)に投稿する予定です。