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前回に続いて、「ゆとり教育」の第三の問題、すなわち、その実施によって教育現場にもたらされたさまざまな混乱について述べます。(なお、ここでの議論は旧文部省も関係しますが、煩雑を避けるため、すべて文科相に統一します。)

1998年、新学習指導要領の公示前に開かれ、その骨格を定めた教育課程審議会の答申には、「幼児児童生徒に自ら学び自ら考える力を育成することを重視した教育を行う・・・」という文言があります。そのような教育は、確かにこれからの子どもたちに重要でしょう。そしてその目玉として新設されたのが「総合的な学習の時間」でした。しかしこの授業を具体的にどう展開していくかは、ほとんど、現場の学校と教師の工夫・裁量に任されました。この授業の名称、具体目標、内容もすべて「各学校において定める」というのです。一般の学校教師にとっては、これは青天の霹靂のような出来事だったのではないかと推測します。この授業をどうするかで学校現場が混乱するのは当然のことでした。

実施後に文科省も現場の混乱を知り、いくつかの対策をとりました。たとえば2003年12月には学習指導要領を一部改訂し、「教科と総合的な学習の時間との関連を強める」という文言を目標に加えたりしました。これはおそらく、実施早々、総合的な学習の時間が教科とまったく別のものでは困るという現場の意見を捉えたものと思われます。また2009年3月の改訂では、高校における「総合的な学習の時間」は大幅に変更されました。あまりにも高校現場の混乱が激しかったからでしょう。参考までに、そこに記載されている高校の「総合的な学習の時間」の総括目標を次に記します。

「横断的・総合的な学習や探求的な学習を通して、自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育成するとともに、学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探究活動に主体的、創造的、協同的に取り組む態度を育て、自己の生き方を考えることができるようにする。」

中教審や教課審の専門家たちの議論を踏まえたものであるだけに、なかなか立派な文言が並んでいます。こういう教育が日本のすべての学校で実現できたらさぞすばらしいことだろうと誰もが思うでしょう。まさにユートピア的教育目標です。しかし現場の先生がこれを読んで、「よーし、やってやろう」と勇気を奮い起こす人がどれだけいるでしょうか。多くの先生方はそういう教育に関心はあるでしょうが、そのような教育を受けたこともなく、もちろん実行したこともなく、どういう指導をしたらよいのかをイメージすることすら難しいのではないかと思われます。

一般に中学・高校の指導は教科が中心であり、教員は教科指導の専門家であることが求められます。ですから、教師の日常は自分の担当する教科指導の研究と準備、およびその事後処理に追われています。そこに自分の担当する教科とは別に「総合的な学習の時間」が入り込んできて、いったい誰が歓迎するでしょうか。中教審の答申はこれからの教育のあるべき姿として尊重されるべきですが、それをいかに学校現場で実践につなげるかはまた別の問題です。それを考えるのが文科省です。その場合に、当然のことながら、現在のカリキュラムを変えることなく、それぞれの教科指導の実践の中で行うという穏やかな方式も考えられたはずです。しかし実際はそうはせずに、一般教科とは別の「総合的な学習の時間」を新設するという、多くの人々にとって未知の方式を選びました。なぜその方式にこだわったのか。筆者の推測では、教育現場に疎い文部官僚や教課審委員らのアイディアであったように思われます。こういう大きな教育改革は、現場から盛り上げるという、地道な努力を積み上げるべきです。

最後に「ゆとり教育」のもう一つの混乱の例を挙げます。指導内容の精選の名においてなされた指導事項の削減に関する問題です。「ゆとり教育」のピーク時の学習指導要領改訂(1998年)では指導内容の3割が削減されたのですから、問題が起こらないはずがありません。たとえば外国語科(英語)の場合には、「ゆとり教育」が始まってから、教科書で使用できる語数が削減されていました。具体的には、実質的な「ゆとり教育」が始まる1982年までは、中学から高校までの6年間で最大4,700語まで使用できました。ところが「ゆとり教育」が始まった1980年代からは、指導要領改訂のたびにその数が削減され、そのピークに達した1998年/99年の改訂では、使用語数がなんと最大2,700まで削減されたのでした。これには驚きました。筆者はたまたまその改訂時に、ある高校用英語教科書の作成に関係していました。そこでこの使用語数制限にはたいへん悩まされました。

検定教科書を作るときには、従来も語彙の選択には苦労していました。この語を使いたいけれど、それを使うと制限語数を超えてしまうということがしばしば起こるからです。教科書は題材によって使用語彙が大きく異なります。頻度の低い語でも、このトピックではこの語を使わざるを得ないということがしばしば起こります。逆に、教科書の編集が終わりに近づいて使用語リストを作成してみると、大学受験には必須と思われる語が一度も使われていないということも起こります。教科書編集には語彙の問題は常に大きな問題ですが、文科省が教科書の使用語数に関して奇妙な制限をつけることは止めてほしいと思っています(注)。思い切って教科書編集者の良識に任せてみてはどうでしょうか。

語彙制限に関連して、1998年/99年の指導要領改訂には特記すべきことがありました。当時の文部官僚で「ゆとり教育」のスポークスマンとして知られた生涯学習局生涯学習振興課長(寺脇研氏)が、ある対談で、学習指導要領というのは「全員に共通して教えるミニマム(最低基準)だ」と明言したというので、私たち検定教科書の編集に携わる者たちが驚いたことがあります。学習指導要領が最低基準だということは、それまで耳にしたことがなかったからです。そうなると検定教科書も新しい基準で審査されるものと私たちは考えました。そこで教科書会社を通して文科省の教科書調査官に問い合わせました。その返事は私たちを落胆させました。「検定教科書は従来どおりの方針で審査する」という返答だったからです。そういうわけで、21世紀最初に中学・高校で使用された英語教科書は、従来よりもいっそう貧弱なものになったと記憶しています。

こうして、1998年/99年の学習指導要領改訂によってピークに達した「ゆとり教育」は、2002年度からの実施を前にして、さまざまな問題を露呈しました。とにかくそれは実施されましたが、さまざまな批判を浴びて、実際には大きく変更せざるを得ない状況になりました。その修復は2008年/09年の現行指導要領ですでに始まっていますが、文科省は今年度末に予定される次の改訂によって、さらに大きな変更を加えようとしています。どんな改訂がなされるのか、われわれはその成り行きを注視しなければなりません。

(注)昔から、大学入試の英語問題を解くには最低3,000語は必要だと言われています。しかしその3,000語というのは、語のカウントの仕方によって大きく異なります。普通は屈折形や派生語はすべて1語と数える「ワードファミリー方式」によります。しかし学習指導要領のカウント方式では、規則的な屈折形を除いてはすべて1語としてカウントすることになっています。1998年改訂の中学校学習指導要領には、語について「別表1に示す語を含めて、900語程度までの語(季節、月、曜日、時間、天気、数(序数を含む)、家族などの日常生活にかかわる基本的なもの)」と書かれています。そうすると、実質的な内容語として使えるものはほんのわずかしか残っていないことになります。これを始めて知った方は「そんなバカな」と思われるでしょうが、本当の話です。こんな奇妙な語彙制限が無意味なことは昔から指摘されていることなのですが、文科省は一向に聞き入れません。実際こんな教科書で高校まで勉強しても、ほとんどの大学入試問題は解けないでしょう。最近の文科省はTOEFLやTOEICなどの外部試験も射程に入れているようですが、今の教科書の語彙制限のもとでは及びもつかないことです。筆者はいろいろ考えてみて、教科書教材における使用語彙は教科書編集者の良識に任せるのが最善の策であるという結論に達しています。