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近年のわが国における英語教育の悲劇は、コミュニケーション能力育成の名の下に、英語をコミュニケーションの手段として使ったことも、教わったこともない教師が英語を教えていることに原因があります。たしかに中学・高校で英語を教える専任教員(特に若い人)の多くは、英語コミュニケーションの経験が全くないわけではないでしょう。学生時代に英語のネイティブ・スピーカーの授業に出たり、海外での英語研修プログラムに参加したりする機会が増えました。しかし留学でもしない限り、自由に英語を使える人は少ないしょう。英検準1級やTOEIC 730のレベルに達している人はいますが、それでは十分ではありません。ですから高校の「英語コミュニケーション」などという教科を教える自信のある人などめったにいないのです。

そもそもコミュニケーションというのは教えることができるものなのでしょうか。たしかに、言語はすべてコミュニケーションの手段として重要な役割を果たしています。人間から言語を取り去ったら、人間らしいコミュニケーションは不能になります。しかし私たちは日本語によるコミュニケーションの仕方を誰かから教わって出来るようになったのでしょうか。教えたのは親でしょうか、学校の教師たちでしょうか、それとも子どもの頃に付き合った友人たちでしょうか。あるいは、それらすべての人たちなのでしょうか。最近の英語教育は、英語のコミュニケーション能力は学校で教えることが出来るという前提で行われているようです。しかし、それは本当に正しいのでしょうか。特に、最初からコミュニケーションを重視する指導は、言語習得の原則からして、間違っているのではないでしょうか。

人間の母語の獲得は、かつてチョムスキーが喝破したように、私たちが生まれながらに所有している、人間に特有の言語獲得能力によるものです。それによって言語の核心部分を習得した上で、コミュニケーションという社会的能力を言語使用の経験を通して身に付けてきたと考えられます。そうだとすれば、外国語教育もそのようにするのが、より自然なコミュニケーションの獲得方法なのではないでしょうか。つまり、まず学習初期において、その言語の核心部分(音韻体系、書記体系、語彙、文法規則などの基本)を学び、そこである程度の基礎が出来上がってから、その言語を用いてのコミュニケーション練習に取り組むのです。学習者は日本語のコミュニケーション能力をすでに獲得しているのですから、外国語の習得は母語のそれよりもはるかに容易なはずです。言語の習得は急がば回れです。今の日本の英語教育はあまりにも性急に過ぎるように思われます。

子どもが最初に自分の言語の核心部分の獲得に集中することは、母語獲得の詳細な研究から明らかになっています。子どもは他の人々とのコミュニケーションを行う以前に、ある期間(最初の2年間くらい)周りの人々の言語に耳をすませてそれをインテイクすることに集中するのです。もちろん、自分の言語を発するようになると、他の人々とのコミュニケーションに関心を示すことも知られています。しかしそれは大人がいうコミュニケーションとは異なり、あくまでも子ども自身の言語づくりが中心なのです。子どもの目的は、相手と交渉するというよりも、自分自身の言語システムを形成するのを助けるためのコミュニケーション活動です。そう考えると、外国語である英語の習得においても、まず自己のうちに英語という言語の基本的システムをつくり上げることに集中するのが正しい学び方であると考えられるのです。

近年の世界における英語力育成の流れがコミュニケーションに傾いていることは確かです。しかし日本の最近の英語教育政策は極端に走りすぎています。それは、筆者の見るところ、大学における実験的試行をモデルにしているために起こっています。実際に文科省の英語教育政策の推進力となっているのは、達意な英語の使い手で、英語教育にこの人ありと目されている高名な大学教授たちです。また、その人たちが考案し試行しているプロジェクトです。たとえば上智大学は、日本英語検定協会と共同でTEAP(Test of English for Academic Purposes)という英語テストを開発しました。それは宣伝によると、大学や留学先での学習・研究に必要とされる場面を想定した英語力(英語で資料や文献を読む、英語で講義を受ける、英語で意見を述べる、英語で文章を書くなど)を、4つの技能別に正確に測定することができ、その成績表には、現在の英語力でどのようなことができるかという目安(CAN-DOリスト)も記されています。そういうものを参考にするのは結構なことですが、それを中高の英語教育に逆算的に適用しようとするのは感心しません。

こういう大学における先導的な試みを中学や高校の教育に適用しようとすれば、中高の教員たちが自分たちにはついていけないと感じるのは当然のことです。彼らの教えている中学生や高校生のすべてが将来留学するわけではないし、大学の授業において英語で議論をする必要を感じているわけでもありません。より多くの生徒たちは、英語の学びはある程度必要だとしても、いつまでも英語だけに関わっているわけにはいかない、英語以外にもっとすることがたくさんあるというのが正直な気持ちではないかと思います。教育行政に携わる人たちは、そういう普通の人たちの教育のことをもっと真剣に考えるべきではないでしょうか。

文科省が英語教育を改革しようとしている実態が筆者にもようやく見えてきました。先日発行された『英語教育10月号』(大修館書店)に、今回の文科省における英語教育改革立案者の一人であった「元文科省英語教育改革プロジェクトマネージャー」と称する人とのインタビュー記事が載っています。その人は楽天の社内公用語英語化プロジェクトにかかわった人で、2014年から2年間だけ文科省に出向し、英語教育改革推進のためのプロジェクトに参加した後、また今年楽天に戻った人だそうです。このような、いわば教育の素人である企業人が今回の学習指導要領の改訂に直接かかわっていたとは、まったく驚いたことです。英語教育改善のために企業人の意見を参考にするのは悪いことではありませんが、そういう人を文科省に迎え入れて学習指導要領の作成に深くかかわらせるとは、まったく嘆かわしいことです。

そして現在の時点で最大の問題となるのは小学校における英語の教科化です。そこでもまた「コミュニケーション」が強調されることになるのでしょう。新しい学習指導要領の実施は2020年にスタートしますから、それに東京オリンピックを利用しようという意図が見え見えです。外国人と英語で挨拶ができ、簡単な道案内ができるようにしよう、などと考える人もいるのかもしれません。しかし筆者が再々説いてきたように、言語の習得は初めが肝心です。挨拶や道案内が英語教育の目標にはなり得ません。しっかりとした英語学習の基礎がそこでつくられる必要があります。小学校の英語は、コミュニケーション教育に先立って、子どもたちが真にどのような学びを必要としているかが問われなければなりまぜん。いい加減な見切り発車は決して許されません。