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 < 統計シリーズ (あとがき) 「私の住みたかった社会」 >                 
2016-9-24

アジア・太平洋戦争が終わって71年が過ぎ、戦後生まれの日本人が今年人口の80%を超えた。敗戦の時物心がついていたと思われる4歳以上だった現在75歳以上の人の割合は、12.5%で、間もなく1割を切る。同じ時代を生き、それぞれの方法で反戦・平和を訴えてきた著名人も次々にあの世へ行く。同年齢の小澤昭一や野坂昭如をはじめ、いくつか年下の永六輔、大橋巨泉らも逝った。ひとり100才を超えても頑張っていたむのたけじさんもとうとう去った。むのさんが朝日新聞社を辞めて故郷秋田へ帰り、個人新聞「たいまつ」の発行を始めた頃、私は角館を挟んで隣村に住んでいたので、ジャーナリストとしての大先輩の死はひときわ身に沁みた。むのさんは、つねづね「長生きした者には、戦争を後代に伝える義務がある」と言っていた。

1. 敗戦のショックと価値観の転換

敗戦当時、東京の旧制中学4年生(16歳)だった私は、しばらくして家族の疎開していた秋田の山奥へ行って1年ほど暮らした。それは一面では悲惨な戦争体験からの逃避であり、後から考えると、再出発のための準備期間でもあった。最初は日がな一日、大石沢でヤマメやイワナを追いかけて暮らした。とにかく、道の両側に積まれた累々たる黒焦げの死体や吐き気を催す死臭、一物も残さず平らになってしまった懐かしい我が家の焼け跡と近所一帯の焼野原、街にあふれる戦災孤児や浮浪者、白衣で物乞いする隻腕・隻脚の傷痍軍人、子供を跳ね飛ばしても平気で行ってしまう占領軍のトラック、そしてあのエセ教育者達(中学の教師)の顔から離れたかった。

大石沢は今では渓流魚釣りの名所になっているそうで、半日さかのぼるといくつもの支流があり、初めはヤマメ、やがてイワナが面白いように釣れた。村の人達には熊に気を付けろと注意されたが、どうせ一度は死んだはずの命だと思うと、そんなことは全く気にならなかった。帰って魚をさばいて近所に配ったりすると、疲れてすぐ寝てしまい朝は4時起きだから、一日遅れで配達される新聞はほとんど読んだことがなかったし、占領軍の厳しい言論統制の下で民主とか平和の文字が躍る記事は読みたくもなかった。頭の中は”いつか必ずニューヨークに原爆を投下してやる“といった鬼畜米英への復讐心が渦巻いていたからだ。唯一記憶に残っているのは、後になって古新聞をひっくり返しているうちに目に入った天皇がマッカーサーに会いに行った時の写真である。勲章を胸いっぱいにつけた大元帥服の威圧するような御真影しか見ていなかった私には、腰に手を当ててリラックスしているマッカさーの横で直立不動の姿勢をとる天皇の姿が哀しかった。天皇さえこうなるんだから、中学の教師たちが豹変したのも仕方ないのかなと思った。

戦争中は「天皇陛下」という言葉が聞こえるや否や直立不動の姿勢をとらないと、怒鳴られたり、向う脛を蹴り上げられたり、挙句の果ては“非国民・国賊”として憲兵隊へ突き出すと脅された。その天皇陛下本人が、新たな権力者の前で直立不動の姿勢をとっているのを見て、この人を神と敬い、命を捧げようとしたのか思うと、騙された悔しさとは別になにか悲しかった。多分その時、もの心ついて以来、長上には絶対服従と教えられ、何の疑いもなくそれに従ってきた私の中に、権威とか権力に対する疑問が芽生えたのではないかと思う。

2か月か3か月遊びほうけているうちに、私の頭はカラになって行ったたようで、やがて、これからどうしたらよいのか考えなければならないと思うようになった。だが、中学2年生で勤労動員に駆り出されて以来、疎開工事、防空壕掘り、そして軍需工場で研磨工として働いていて、なんにも勉強していないのだから、考えるにしても、判断するにしても土台になるものがなく、頭の中は空回りするばかりであった。渓流釣りを休んで、2~3か月、手間賃稼ぎの肉体労働をしながら、時間があれば檜木内川の土手に寝転んで空の雲を眺めて暮らす日が続いた。やっと、これからどうするにしても、もう少し勉強しなければ話にならないと自覚し、がむしゃらに自己流の受験勉強をして東京へ帰った。一年ぶりの東京はひどい食糧難で闇市が跋扈しており、私もたちまち食料を得るための生存競争、つまり”買い出し“に巻き込まれていった。

敗戦の年は空襲と冷害で大凶作であったし、外国からの食糧輸入は途絶したから、翌1946年は空前の食糧不足に襲われた。この年の5月“コメよこせデモ”が「朕はたらふく食っている。汝臣民飢えて死ね」というプラカードを掲げて宮城(皇居)へ押しかけ、マッカサーは”暴徒”の取り締まりを命令した。政府はマッカーサー司令部に300万トンの食糧緊急輸入を請願し、国会ではこの請願と新憲法が同時に審議されていた。国民が生きるか死ぬかの食糧危機に見舞われている中で、アメリカ製の新憲法が公布された。国民の大多数がそんなものに関心を示さなかったのは当然だろう。日本国憲法が、国民の関心とは無縁のところで、しかも占領軍の言論統制の下で、どさくさまぎれに公布、施行されたのは紛れもない事実であり、私も”象徴天皇?なんのこっちゃ?”と思った程度で、憲法に関心を持つようになったのはもうすこし後のことであった。

東京高等師範学校の英語科に入ったものの、主たる講義の英米文学のテキストは高尚すぎて全く肌に合わず、アルバイトと柔道に明け暮れるうちに、多分、人生の転機となった二つの出会いを体験することになった。

ひとつは、アメリカ文化センタ―の英書によって、国連創設のダンバートン・オークス会議を知ったことである。二つの大戦がもたらした惨禍と、再び戦争をくり返さないために英知を結集しようと必死に努力した人達の情熱に深い感銘を受け、不倶戴天の敵だと思っていたアメリカ人やアメリカの価値観を学ばねばならないと思うようになった。それはやがて「自由・公正・人権」の尊重という思想に収斂し、身に沁みついた修身教育とその根底をなす皇国史観からなんとか脱却しえたのだと思う。その中で、日本国憲法が、様々な問題はあるにせよ、国連憲章の精神を忠実に具体化しようとしたものであることを知った。

もうひとつは、一般教養の講義を受けた日本史の家永三郎教授の信念と人柄に惹かれたことである。「過去を学ばなければ現在は理解できない。現在を理解できなければ未来を語ることはできない。未来に生きる生徒を教える教師になる諸君は、しっかりと歴史を学んでください」という家永教授の言葉が、
かつて皇国史観を講義し多くの若者を戦場へ送った歴史学者としての悔恨の上に立つものであることが、伝わってきた。その後、家永先生は、文部省の教科書検定に反対し、30年以上にわたって国家権力と戦った。「教科書の検定は、憲法で禁じられた検閲であり、国家権力による国民の思想統制の最初にして最大の試みである」という先生の主張の正しさは、現在までの歴史によって証明されている。

個人的には、私が都電の吊革につかまる先生の白く華奢な腕を見て「鞄を持ちます」と声をかけた時「結構ですよ。柔道をやっているんですか。頑張ってください」と道着を見てほほ笑んだ眼鏡の奥の優しい目が忘れられない。戦争中は強さや大和魂が男にとって最高の美徳であると教えられて育ったが、事実によって、それが空虚な強がりに過ぎないことを知ってしまった私にとって、優しさこそ人間として最も大切なものあり、他者に対する優しさがあれば戦争は起きないということを家永先生によって教えられた。決して頑健そうには見えなかった家永先生が自由主義者としての信念を貫いた生涯を私は何物にも代えがたい、人生最高の教訓であると考えている。(M)

* 仕事の都合により、私の投稿は今年いっぱい休載させていただき、来年
  1月末に再開します。次回は < あとがき「私が住みたかった社会」 2 >  を 1月28日(土)に投稿する予定です。