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< 犬の話 >                松山 薫

私が高等師範学校を卒業して初めて赴任した新潟県の栃尾(当時は町、その後市になり、今は長岡市に合併)は、雪深い盆地である。大雪の年には、道路は屋根から下ろした雪が3メートルも積みあがり、2階の窓まで達する。人は軒先から1間ほど張り出した雁木の下を通行するが、時々上のほうから橇を引く馬の鈴の音が聞こえたりする。なれない者にとっては雪道を歩くのは難行苦行である。とくに吹きさらしの橋の上などは雪が土地の言葉で“ぎょろんぎょろん”に凍りつき、滑ったら川へまっさかさまということになるから、橋の上を歩く時は欄干につかまりながら、横歩きというみっともない姿を朝夕登・下校の生徒達にさらすことになる。私は学校から2キロほど離れた家の2階を借りて下宿していたが、夏場は20分ほどで学校に着くのに雪が降ると30分以上かかる。それで、得意の日曜大工の腕を生かして自分で馬橇を作ろうと思い立ち、農業科の先生に相談してみると「君の月給では飼葉代も出ないよ」と言われてあきらめた。で、次に犬橇を考えた。犬なら寮の生徒の残飯で飼えるだろうと寮母さんにお願いしてみると、「いいよ」ということだったので、近所の材木屋さんで木材を運搬している大きな犬のこどもを菓子折りひとつで貰い受けた。下宿の庭に犬小屋を作り、Echo (山彦,つまり呼べば答える)と名づけて飼っているうちに、だんだんなついて可愛くなってきた。夏を越すとかなり大きくなり、これなら大丈夫だろうと一人乗りの橇を作って、雪の降るのを待った。雪が30センチほど積もったので訓練を始めようと、Echoに橇をつけたが、ぜんぜん真っ直ぐ走らない。あらぬ方向へ走ったり、ぐるぐる廻るかと思うと突然止まるので、その度に、私は橇から放り出される始末となった。その時ふといつか見た漫画を思い出し、次の日は肉を買ってきて,竹竿の先につるし、「前進!」と叫んで犬の尻をひっぱたいたが、今度は肉をめがけて猛烈な勢いで飛び上がるだけで、私は後ろにたたきつけられた。それでまた、農業科の先生に聞くと「橇を曳かせるには厳しい訓練が必要で、君の月給では破産するよ」と忠告された。それで仕方なく犬小屋につないでおいたところ、近所の人に、鳴いて暴れて困ると苦情を言われ、昼間は学校へ連れて行って馬小屋につないでおいた。だんだん大きくなってきて顔つきも獰猛になり、放課後に放すと生徒を追い掛け回し、とうとう女生徒のスカートをかみちぎり、謝りにいった。一旦放したら、呼べど応えず、振り向きもせず、どこかへ行ってしまい、下宿へ帰ると犬小屋で寝ていた。農業科の先生に相談すると、「繋ぎ放しでは犬もいらいらして可哀想だから、時々散歩に連れて行きなさい」と言われたが、時間がないまま、(そのくせ夜は酒ばかり飲んでいた)放っておいたところ、ついに近所の子供の尻に噛みついてしまった。ジステンバーや狂犬病の予防注射をしていなかったので、ちょっとした騒ぎになり、校長にどやされて、Echoは役場に引き取られることになってしまった。いわゆる”殺処分”である。下宿に引き取りに来た係員達に犬小屋から引きずり出され、リヤカーに縛り付けられて、いつも通う川沿いの道を学校の方へ牽かれていった。遠ざかっていく姿と長く尾を引く鳴き声は、目と耳にこびりつき、60年近く経った今も消えることはない。
 昨年の春、私の住む団地の管理組合の理事会が、長年の懸案であるペット飼育について、「一年以内に飼い主に処分してもらう」という決定をして、総会でも激論の末承認された。多くに住民が、これで来年からこの団地には犬がいなくなると喜ぶ一方、飼い主たちは猛反撥して、団地内に不穏な空気が流れた。輪番で次の理事に選ばれた私は、直ちに、自ら、ペット問題を担当することを申し出た。他の理事さん達はホッとすると同時に、なんて奇特な人だろうと思ったという。“犬奉行”と呼ばれながら、あの手この手で一年間両派の人達を説得し、最後に全組合員に向けて長文の報告書を書いた。「Echoよ。お前の仲間は絶対に殺させないぞ」という思いが伝わったのだろうか、5月の総会では、全会一致で、前年度理事会の決定を撤回してもらうことが出来た。(M)