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2016年も残るところわずかになりましたが、今年のトップニュースはなんと言ってもトランプ当選に終わったアメリカ大統領選挙でしょう。6月に実施されたイギリスのEU脱退(BREXIT)を決めた国民投票の結果も大きなニュースでしたが、その影響力からいって、アメリカ大統領選挙の方がショックの度合いはずっと大きかったと思います。世界中がパニックに陥ったのではないかと思われるほどでした。例によって、そんなことはとっくに予想していたことだとしたり顔に言う人もいますが、しかしそれは終わったことだから言えることで、ではこれから先はどうなるかと問われて、自信を持って回答できる人などいないはずです。それが起こることは可能性として十分に認識していたとしても、予測の難しい自然現象と同じく、実際に起こるまでは疑心暗鬼なのが神ならぬ我々人間の常なのです。

意外な結果に終わったアメリカ大統領選挙によって、私たちが気づいたことがいくつかあります。大きな問題を二つだけ挙げます。その一つは、近年のグローバリズムへの急激な経済変化によって、一部のエリート層と大多数を占める一般大衆との貧富の差が拡大し、それを不平等と感じる人々の不満が我慢の限界を超える程度にまで進んでいたということです。民主党のサンダーズ候補の善戦もそれを物語っています。筆者は政治学者でも社会学者でもないので、そのようなグローバリズムによる人々の分断化の歴史的経過や現状を客観的に分析する能力を有しませんが、世界の政治がトランプ現象に刺激されて、「自国第一」のナショナリズムの方向に進んでいくのではないかと危惧しています。最近のヨーロッパ各国における極右政党の台頭はそのようなナショナリズムの傾向を顕著に物語っています。このまま進むならば、やがてかつての忌むべき戦争への道へと進むことは避けられないように思われます。

もう一つ私の気づいたことは、トランプの暴力的とも言える数々の発言によって、これまで多くの人々が慎重に避けてきたレイシズム(racism)やセクシズム(sexism)などに関する差別的な表現が、今度の選挙では大量に使用されたことです。それは「ポリティカル・コレクトネス」( political correctness)と呼ばれている問題と関係します(注)。政治家や知識人は、近年、人種差別や性差別やマイノリティー蔑視につながる言葉を避けるように必死に努力してきました。ちょっとでもそれに抵触するような発言をするとメディアが大きく取り上げて非難しました。ところがトランプはそういう発言を好んで(おそらく意図的に)使いました。もちろんメディアはそれを叩きましたが、トランプは決して止めようとしませんでした。それにもかかわらず、「トランプは正直でいい」という声がずいぶんありました。つまり、多くの普通のアメリカ人にとって、 “political correctness”というのはあくまでも建前であって、人前ではそういう用語や表現を使うように気をつけているけれども、本音(つまり、心の奥底)ではいつも反発を感じているということなのです。

こんなことを考えているときに、たまたま『「グローバル人材育成」の英語教育を問う」(ひつじ書房2016)という本(注2)が目に留まりました。それは、グローバル化によってもたらされた社会格差というような大きな歪みが顕在化している今日、わが国の教育行政が全力を上げて取り組んでいる「グローバル化に対応した英語教育」が、果たして正しい政策と言えるのかどうかを批判的に論じています。以下にこの本の内容を紹介し、現在進行中の文科省主導の英語教育政策がいかに大きな問題を含んでいるかを考察します。(第二の「ポリティカル・コレクトネス」に関連する諸問題については、次回に稿を改めて述べるつもりです。)

この本は、まず「グローバル化」とはどういうことかを定義することから始めています。野村昌司氏は最初の基調提案で、「グローバル化時代においては、各国のルール、つまり国境をなくしてしまい世界共通のルールのもと、同じ価値感を共有しています」(下線と太字は原文による)と述べています。そしてここで言う「世界共通のルール」には「世界共通の言語」が必要になり、それは当然「英語」ということになります。英語はもともと英語圏文化の言語ですから、日本におけるグローバル化というのは、英語圏文化の価値感を共有するということです。これを突き詰めていくと、その行き着くところは日本のアメリカ化ということになります。そこで日本の政府と文科省は、日本人も英語母語話者のように英語を自由に使えるようになる必要があり、そのためには小学校から英語を学ばせる必要があるという結論に達し、2020年度改訂の学習指導要領によってそういう教育を実行しようとしているわけです。

しかしこれは根本的に間違った考え方であり、日本を危険な方向に導く教育方針であることを、この本に登場する論者はさまざまな角度から論じています。たとえば二番目の論者である江利川春雄氏は、そもそも学校教育における外国語教育の目的は「クローバル人材の育成」ではないと述べ、文科省が現在行っている英語教育政策は上位1割ほどのエリート教育に特化していると断じます。残り9割の人たちの学びのためには、英語一辺倒ではなく、「世界の現状と展望を考えさせる教材」を開発して、複言語・複文化主義に基づく、国境を越えた「民主的市民」の育成を目指すべきだと主張しています。次の鳥飼玖美子氏は、江利川氏の提案を引き継ぎ、日本の外国語教育は「グローバル人材」ではなく「グローバル市民」の育成であると論じ、「グローバル人材は、日本企業のために世界で闘う人材というイメージが濃厚ですが、グローバル市民は、闘うのではなく、地球社会に貢献するのです」と述べています。

残る二人の論者についてはここでは割愛しますが、いずれも英語教育に直接かかわる専門家の立場から、現在行われているわが国の「グローバル人材育成」の英語教育が、いかに間違った、危険な方向に向かっているかを明らかにしています。

なぜ文科省はこういう英語教育の専門家たちの意見を取り入れようとしないのでしょうか。筆者の見るところ、それは文科省が現政府の考え方に追従して、経済成長優先の国家政策のもと、一部の声の大きな企業家の意見を英語教育に取り入れようとしているからです。しかし教育を実践する教師たちは、無自覚的に時の政府の方針に従ってはなりません。そうでないと、自らの気づかぬうちに、これからの世界に羽ばたく子どもたちや若者たちを誤った方向へ――つまり、取り返しのつかない孤立主義や戦争といった人類滅亡の方向へ――と導いてしまう危険があります。先の大戦が終わって日本が焦土と化したとき、多くの教師が自らの教え子たちを戦場に送り出してしまったことを悔いました。私たちはそういうことが再び起こることを絶対に許してはなりません。そのような事態を回避するためには、それぞれの教師が、自分のいま扱っている教育の内容と方向が真に子どもたちの将来に役立つものなのかどうかを、常に吟味しながら授業を進めることが重要なのではないでしょうか。

(注1) “political correctness”(略してPC)とは「人種や性別などの違いによる偏見・差別を含まない反差別的・中立的な用語や表現を用いること」を意味します。日本語にはこれに相当する用語がないので、「ポリティカル・コレクトネス」と片仮名英語で表すことが多いようです。そもそもは「用語における差別・偏見を取り除くために、政治的観点から公正で適切な用語を使う」という意味で、1980年代にアメリカで始まった運動です。なお上の定義に挙げた人種・性別のほかにも、民族・文化・宗教・職業・出自・身体的障害・精神的障害・年齢・婚姻状況など、多岐にわたります。日本語の「障害」や「障害者」という語も「害」という否定的意味を持つ漢字を含むので、差別語だと考える人もいます。

(注2)この本は、2015年6月13日に中京大学で行われた「グローバル化に対応した英語教育とは?」と題する公開講座を基に編集されたものです。講師は野村昌司(基調提案 中京大学)、江利川春雄(和歌山大学)、鳥飼玖美子(立教大学)、斉藤兆史(東京大学)、大津由紀雄(明海大学)の5名で、それぞれの演題は次の通り。野村:グローバル化に対応した英語教育とは?;江利川:外国語教育は「グローバル人材育成」のためか?;鳥飼:グローバル人材からグローバル市民へ;斉藤:「グローバル時代」の大学英語教育;大津:本道に戻ってグローバル化に対処する。