Print This Post Print This Post

『英語教育』3月号第1特集のテーマは「英語教師のためのPDCAサイクル―今年度目標の達成度を振り返る」となっていて、それに関して9点の記事が掲載されています。私はそれらを一読して違和感を持ちました。ほとんどの記事において、「PDCAサイクル」との関連が不明だったからです。一部の記事はPDCAに関係づけていましたが、特集のテーマに合わせて無理にそうしているように思われました。この特集の主要テーマは、むしろ、副題になっている「今年度目標の達成度を振り返る」にすべきでした。そうすれば、ほとんどの記事がすんなり収まりました。一年間の指導を振り返るのにPDCAを持ち出す必要はなかったのです。これは特集の企画段階で、雑誌編集部にPDCAサイクルが適切に機能しなかった結果です。

この特集を読んで気がついたことは、「PDCAサイクル」とは何かについての理解が執筆者によって違っていることでした。おそらく雑誌編集者の理解も違っているのでしょう。そもそも、この用語はどうやら文科省が最近好んで使っているもののようです。昨年12月に公表された中教審答申の中に次のような記述があります。「平成28年度より、都道府県ごとに『英語教育の改善プラン』の策定・公表を行い、生徒・教員の英語力等の目標を設定、管理の上、必要な研修等を実施し、PDCAサイクルの構築を推進している。」(答申p.202)というのです。つまり、文科省は学校の生徒や教員の英語力を高めるために必要な教員研修などを都道府県ごとに行うことを企画しており、そのプランを設定し管理するための事務的手続きを公式化しようとしているのです。その一連の手順を「PDCAサイクル」と呼んでいるわけです。

いったい「PDCAサイクル」とはどういう意味を表す用語なのでしょうか。ウィキペディア百科事典は、「事業活動における生産管理や品質管理などの管理事務を円滑に進める手法の一つ。Plan(計画)→Do(実行)→Check(評価)→Act(改善)の4段階を繰り返すことによって、業務を継続的に改善する。」と書いています。おそらく文科省は、都道府県における教員研修の計画・実施などの業務に関して、「それを計画し、実行し、評価し、改善して再実行する」という一連の定式化された手順を繰り返すことによって、客観的に目に見える形で彼らの業務を改善することができると考えたのでしょう。それがPDCAサイクルというわけです。じつに巧妙な戦略です。

しかしこれを教育活動に応用するときには、よくよく注意をしなければなりません。なぜなら、教師の仕事は文科省や教育委員会の管理事務のそれとは大きく違うからです。最も大きな違いは、生徒はモノではなく、教師によって完全に管理されるべきものではないのです。そのことは『英語教育』誌の記事にも書かれています。最初の執筆者・江原美明氏は「『振り返り』の仕方を振り返る―新たな出発に向けた5つの視点」の末尾を次のように締めくって注意を促しています。「本稿で紹介した5つの視点は、PDCAで言えば全てPの段階で行うべきことです。生身の人間である教師、生徒、同僚が授業という場を通して学び合い、さらに学校内外での研修を通して学びと出会いを経験する。そこには製品の品質管理にはない、人と人とのやりとりの結果生まれる学びのプロセスがあります。本稿が、生身の人間の学びのプロセスを振り返るための一助になれば幸いです。」(p.12)

また2番目の記事の執筆者・渡部良典氏は、「PDCAサイクルを取り入れた評価―CAN-DOリストを活用して」の中で次のように述べています。「PDCAサイクルは、基本的には仮説―検証―発見という科学的操作の基本を具体化したものである。Pの段階の立案が仮説であるとするならば、最初から完璧な目標設定を示した記述文の集合を作成する必要はない。徐々に習得することを促すようにすべきである。一夜にして飛躍的な伸びをみせることを過剰に期待してはいけない。機会を与え辛抱強く見守る必要がある。」(p.15) ちょっと分かりにくい文章ですが、つまり、学習目標を設定する場合に、教師が自分の設定した目標を性急に追求しようとすると生徒がついてこれなくなるので、生徒の自主性を尊重し、その目標に至るプロセスを大事にして辛抱強く指導する必要があるということのようです。教師が文科省にならって管理主義に陥ってはならないのです。

3番目以降の7つの記事は、それぞれの筆者が今年度の授業を振り返っての報告(及びそれを次年度の指導にどうつなげるかの見通し)が主体になっています。多くの筆者が自分の振り返りをPDCAサイクルにどう結び付けようかと苦労をしたようで、読んでいてしばしば気の毒に思いました。

(付記)「PDCAサイクル」という用語を文科省や教育委員会が管理事務の能率化のために使うのは彼らの自由でしょう。しかし学校における教育活動にこれを適用する場合には慎重であってほしいと思います。教員が自分の教育活動にこの用語を用いるのは望ましくありません。また、本文で示唆したように、その必要はないと思われます。