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文部科学省が推進している「コミュニケーション能力育成」一辺倒の英語教育は行き詰っています。たとい現在の計画で10%くらいの英語エリートを育成することに成功したとしても、他の多くの生徒を置いてきぼりにしますから、高校生の学力差は拡大するばかりです。中学卒業生の大部分が進学する高校教育の現状からして、この問題を放っておくことはできません。そしてその改革の目指す方向は高校英語教育の多様化です。前回は、「英語以外の外国語を生徒が選択できるようにすること」が、そのアプローチの一つであると述べました。

そして高校英語教育を多様化するもう一つのアプローチは、「生徒の英語学習に関する様々なニーズにこたえること」です。すでに述べたように、高校生には英語の学習意欲の観点から3種類のグループに分けられます。第1のグループに属するのはごく少数の「英語エリート」で、自分の英語習熟度を母語話者に匹敵する程度にまで引き上げることを目指す者たちです。第2のグループは評判の良い大学への進学を希望する者たちで、その当面の努力を大学入試に集中し、あわよくばそこで獲得した英語力を将来の必要につなげたいと願っている者たちです。そして第3のグループは英語学習に困難を感じていている者たちで、ここには中学校までの英語に躓いてすでに学習意欲を失っている者たちから、意欲はあっても高校の授業にはついていくことができない者たちまで、様々なレベルの者が含まれます。高校生の英語学習の現状を分析すると、そこには学習のニーズに関する多様性がすでに存在するのです。

文科省は第1グループの英語リートや、第2グループのうち見込みのありそうな者の教育には熱心ですが、高校の授業についていけない生徒たちに対しては比較的に冷淡です。中教審答申(2016年12月)には次のような記述があり、わが国の教育行政がエリートのための教育だけではなく、そうでない生徒たちへの教育にも配慮していることを示そうとしています。

「中学校で学んだことを実際のコミュニケーションにおいて運用する力を十分に身に付けていないといった課題のある生徒も含めた高校生の多様性を踏まえ、外国語で授業を行うことを基本とすることが可能な科目を見直す必要がある。」(p.199

しかしこれらの生徒の指導をどうするかということになると、「必履修科目(特に学習の初期段階)において、中学校の学び直しの要素を入れることとする」というだけで、実際にどのような指導を行うかなどについては何も書かれていません。したがって学力的に中位以下(前記第2グループの一部と第3グループ)の生徒を指導する教師たちは、担当する生徒の実態に応じて、それぞれに独自の指導目標や指導法を創出する必要があります。学習指導要領が幾度改訂されても高校の教師たちが文科省の意図するように動かないのは、このような事情によるのです。

では、文科省が作成する学習指導要領が自分の勤務する学校の教育実践にさほど役立たないと判断するとき、その教師はどうすべきでしょうか。学習指導要領は法令として定められるものですから、公立学校の教師はもちろん、私立学校教師もそれを完全に無視することはできせん。それは国の方針として尊重する義務があります。しかし学校の教師は警察官とは違います。学習指導要領のもろもろの規定は尊重しなければなりませんが、生徒を愛し育てるという教師としての職務がそれらに優先します。それゆえ各学校における実際的指導は、かなりの程度現場の裁量に委ねられます。学習指導要領もそこまで立ち入ることはできません。たとえば、「授業は英語で行うことを基本とする」と法令は定めています。しかしそれはたてまえであって、英語授業での日本語使用が全面的に禁止されていると考えるべきではありません。常識的に考えて、必要な場合には日本語の使用は認められます。また、第二言語や外国語の指導において、必要に応じて学習者の母語を使用するのが効果的だということは、これまでの学問的研究でも認められている公理でもあります。

では高校における英語授業を多様化するために教師ができることは何でしょうか。また何をなすべきでしょうか。そのことを考えるためには、まず学習指導要領の画一的な指導目標によってではなく、もっと柔軟に、英語を学ぶことの多様な目的や価値を認めるところから始めるのがよいでしょう(注)。そうすることによって、教師が英語を教えることを楽しみ、生徒がその授業を楽しむことが可能になります。教師が授業を楽しむことができなくては、生徒をその授業に惹き込むことはできません。そして教師が自分の担当する授業を楽しむためには、教師は自分の授業に自信を持っていなくてはなりません。外からの圧力によって、自分の考えている授業とは異なる授業をしなくてはならないとすれば、それは教師にとっても生徒にとっても不幸なことです。

このことに関して一例を挙げます。前記の2016年12月の中教審答申には、「統合的な言語活動」を一層重視した目標を設定することの必要性が強調されています(答申p.195)。来年3月に公示される予定の高等学校学習指導要領にも、きっとそのような文言が記されるでしょう。その理由は、実際のコミュニケーション場面では「聞く・話す・読む・書く」などの活動が種々に組み合わされて実行されることが多いからだといいます。しかしながら、統合的な活動ができるためには、それぞれの活動を支える基礎的な知識や技能の獲得がその前提となります。英語の文章を読んで理解するためには、そこに出現する語彙や文法の規則を知らなくてはなりません。また理解した文章を正しく音読するためには、英語の音韻と綴り字の規則を知り、書かれた文字系列を正しく音声化する技能を獲得しなければなりません。教科書本文の内容を要約したり、それについて議論したりするという活動は、さらに高度な知識と技能を組み合わせた活動になります。

しかし教師ですら、そういう高度な活動を豊富に経験している人は少ないのではないでしょうか。だからと言って無理は禁物です。自分の経験したこともない活動を自分の授業に性急に採り入れようとすると失敗します。それは往々にして形だけの模倣になって、「たましい」の抜けたものになります。そうなっては、その活動は死んだものとなってしまいます。教師にとって未経験な活動は、自分の得意とする活動の発展として、教師自身の判断で取り入れていくのがよいのです。そうすれば、教師も引き続き自分の授業を楽しむことができますし、自分にとって自信のある活動の中に新しい試みを取り込むことで、自らの冒険心を満たすというおまけもつきます。そうやっているうちに、やがて気がついてみると、自分の授業が大きく変革していることが分かります。これは筆者自身が教員をしていた時代に幾度も経験したことですので、確信を持って言うことができます。教師にとって何よりも大切なことは、教師が自分の授業を主体的・創造的に組み立てていくことです。

「冒険心を満たすこと」は、教師だけではなく、学習の過程にある生徒たちにもぜひ経験させたいものです。いつも同じパタンで授業が進んでは彼らも退屈します。ときに冒険をして、これまで経験をしたことのない活動を行うことによって、彼らも自分の持っている新しい力に気づくことがあります。そしてそれが自己変革のきっかけともなります。生徒たちにそういうフレッシュな経験をさせることができれば、たとえ見栄えのしない授業であっても、それは決して無駄にはなりません。授業は様々な個性を持った教師と生徒との心の交流の場です。それはつねに、一期一会の貴重な瞬間をそれぞれの生徒に提供する可能性を持っています。そしてそれこそが創造的授業の特徴なのです。

(注)英語を学ぶことの多様な目的や価値について、筆者は本ブログの以下の投稿で論述しました。関心のある方はご覧ください。「私の英語教育時評(18)英語を学ぶことの価値と楽しさ」(2016114日投稿)