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最近の教育改革に関するキーワードの一つが「アクティブ・ラーニング」であることは夙に知られています。2016年12月21日に出された中教審(中央教育審議会)の答申にもこの用語が使われていました。そこには、これからの教育は子供たちが「何を学ぶか」だけではなく、「どのように学ぶか」という学びの質を重視した授業改善を図っていくことが重要であるとし、次の学習指導要領改訂では子供たちの学びの過程を質的に高めていくために「アクティブ・ラーニング」の視点からの授業改善を行うことが必要である、と述べられています。しかし今年2月14日に公表された学習指導要領改定案には、意外なことに、「アクティブ・ラーニング」(以下AL)の用語が使われていません。それに代わって、「主体的・対話的で深い学び」という表現が頻繁に使われています。なぜそうなったのかは興味ある問題ですので少し調べてみました。

新聞報道(朝日新聞2017年2月15日)によると、文科省担当者はこの点に関して、「学習指導要領は広い意味での法令にあたり、定義がないカタカナ語は使えない。ALは多義的な言葉で概念が確立していない」と説明しているとのことです。たぶんそういうことなのでしょう。最近の教育界におけるこの語の使用頻度はすさまじく、アマゾンで「アクティブ・ラーニング」をキーワードとして検索すると、これに関連した本が驚くほど多数出版されていることを知ります。これだけ流行してしまうと、その定義が複雑化して曖昧になることは避けられません。勉強好きな教師たち中には、これらの本を読んで頭が混乱してしまった人もあるのではないでしょうか。

そこでALの由来について調べてみました。するとこれは大学教育に関連した議論で使われ始めたことが分かりました。従来から大学における授業の多くは教師の講義が中心で、学生は教師が各自の専門分野に関して行う講義に注意深く耳を傾け、その内容を理解し吸収するというのが主な活動でした。もちろん、時には学生が講義の内容に関して質問し、教授がそれに真剣に応じたりして面白い議論に発展することはありました。しかしそれはむしろ偶発的で、教師があらかじめ準備して意図的にそういう議論に導くというケースはあまり無かったように思います。筆者が学生時代を過ごした1950年前後には、ほとんどの大学の授業(特に講義科目)がそうでした。学生がそれで満足していたわけではありませんが、当時はまだ戦後の混乱期から回復しておらず、そういう授業にまめに出て、教師の面白くもない講義をノートすること以外に学習方法が見つからなかったのです。

余談になりますが、そのころ筆者が通っていた文京区茗荷谷のキャンパスには、旧制度の東京高等師範学校・文理大と、新制度によって生まれた東京教育大が混在しました。校舎はまだ戦災の跡も生々しく、教室はまったく整備されておらず、図書館もほとんど使い物になりませんでした。ですから授業がどんなにつまらなくても、それに出席して先生の講義をノートすることでしか学習の仕様がなかったのです。時おり放課後に都電で神田神保町の古本屋街に出かけて行って、探していた本や欲しかった辞書を見つけて小躍りして喜んだものです。

しかし戦後の復興が進み、大学の修学環境が改善されていくにつれて、そういう教師の一方的な情報伝達の授業では学生が満足しなくなりました。それは当然のことでした。教師が話すものは、授業に出るよりも図書館に行って本を借り出して読むほうが簡便だし、近年はインターネットを利用すれば必要な情報はいくらでも手に入るようになりました。今の時代に教師の講義をただ黙って聴くなどというのは、ずいぶん時代遅れになってしまったのです。しかし時代は変わっても、大学の授業の仕方はなかなか変わりませんでした。その理由は、大学教師の多くは専門分野の研究者なので、自分の研究には熱心でも授業はいい加減な人が多かったからです。中には、現在は少なくなったでしょうが、授業は自分にとって余分な雑務だと考えている人さえいました。そういう人は授業の仕方を工夫しないので、自分がかつて学生時代に教わったように授業をしていたわけです。

ALはそういう大学の授業を何とかしようという運動として始まったものです。その直接のきっかけとなったのは、2012年8月28日の中央審議会答申であったようです。この答申のタイトルは、「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~」という長いものですが、要するに、大学生たちの「受動的な学び」を「能動的な学び」へと転換しようということです。その用語集の「アクティブ・ラーニング」には、「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた授業・学習法の総称。(中略)発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。」と説明されています。

こうして最初は大学の授業改革から始まったものが、やがて高校や小・中校の教育に波及していくわけです。先の中教審答申から遅れること2年、2014年11月20日の下村文科相から中教審に出された「初等中等教育における教育課程の基準等について」という諮問の中に、「アクティブ・ラーニング」というカタカナ語が使われたのでした。これが小中高にこの語を広めたきっかけになったようです。しかし小・中学校では、ALという言葉が流行するずっと以前から、教師が一方的に講義をするという形式の授業ではだめで、子供たちをいかにして授業の内容に動機づけるかが教師たちの最大の関心事でした。「アクティブ・ラーニング」という用語は小・中校の先生がたには耳に新しいものでしたが、そこで推奨される授業の進め方に彼らが特に新しさを感じることは無かったと思われます。

しかし一部の高校の教師たちには、ALはショックだったかもしれません。なぜなら、高校の教師の中には、自分の専門分野に関して専門家としての自負を持っている人がかなりいます。そしてそういう人たちは、大学の研究者たちと同様に、授業よりも自分自身の研究のほうを大事に考える傾向があります。筆者の旧制中学時代にもそういう教師が何人かいました。しかし、いま思い起こしてみて、印象に残っている教師の幾人かがそういう人たちであったことから、彼らの存在価値は大きかったように思います。そういうことを考えると、高校の授業が生徒主体のもっとアクティブなものにするのは望ましいことですが、学校全体がそういう授業に長けた教師一色になっては面白くありません。学校には(特に高校段階では)いろいろな教師がいて、それぞれが個性を発揮することも大切なのではないでしょうか。今度の学習指導要領案がAL に代わって「主体的・対話的で深い学び」という表現にしたことで、自分の専門分野について深い学識を持った教師にも、自分の授業について様々な工夫をする余地を与えるという意味で、筆者はこの変更に肯定的な評価をしたいと思います。