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「英語化は愚民化」というのは、政治学者である九州大学大学院準教授・施(せ)光恒(みつひさ)氏が著した本(集英社新書2015)の書名から拝借したものです。その本の副題は、「日本の国力が地に落ちる」というものでした。それを最初に見たとき、そのあまりにも挑戦的な題名にやや反発を感じたように思いますが、読んでみて成るほどそうかと納得できる点が多く、英語教育の専門家とは異なる発想が随所に見られ、大いに啓発されたものでした。それが出版されてから2年後の今、もう一度読み返してみて、そこで指摘されていたことの多くが現実となって迫ってくる恐れが高まっていると感じます。

施氏の言う「英語化」とは、今世紀に入ってから政府と文部科学省が打ち出した、学校教育における一連の英語重視政策を指しています。まず2000年に、政府の立ち上げた「21世紀日本の構想懇談会」が、これからの時代を生きる日本人にはコンピュータと英語が必須だと提言しました。それを受けて文科省は、それまで消極的だった小学校での英語教育を実施する方向に転換し、着々とその準備を開始しました。そして2002年、「『英語が使える日本人」の育成のための戦略構想』なるものを打ち上げ、私たちを驚かせました。その戦略構想の目玉は英語教育の早期化でした。まず小学校高学年(5・6年生)を対象に、「総合的な学習の時間」や「特別活動」の時間を利用し、教育の一環として外国語会話(英語会話)を教えることになりました。次いで2008年の学習指導要領改訂で、それを独立した「外国語活動」に格上げしたのでした。そして今度の改訂では、「外国語活動」を小学校3・4年生に移し、5・6年生では「外国語」という名の教科にすると決めたのです。

学校教育における英語重視政策は小学校教育に留まりません。2009年の高等学校指導要領改訂には「授業は英語で行うことを基本とする」と記し、従来の学習指導要領とは違って、その規定が普段の授業の進め方にまで及ぶことになりました。そして文科省はその後、中学校でも英語の授業は英語で行うように通達を出しました。そのモデルとなる実践を推進するため、ご存知の方も多いかと思いますが、2002年度から各地に「スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール」(SELHi)が新設され、また2014年度からは「スーパー・グローバル・ハイスクール」(SGH)が設置されました。このように、小学校から高校に至る英語教育の改革を、文科省は着々と実施に移しています。

さらに文科省は「英語化政策」の方針をエスカレートさせ、大学の授業を早急に英語化するように促しました。その促し方は実に巧妙で、「スーパーグローバル大学創成支援」と称するプロジェクを2014年度から強力に推し進めています。それによると、文科省は世界大学ランキングトップ100を目指す「トップ大学」及びグローバル化を牽引する「牽引型大学」を選定し、認定した大学に最大で年間50億円(10年間)の補助金を出すというものです。その補助金の分配には、英語で行う授業の割合が重視されます。文科省はその権限を最大限に活用し、大学への補助金で釣ろうという巧妙な仕掛けです。このプロジェクトには104校の応募があり、2014年9月には、国公私立大学を併せて37大学が認定されています(注1)。そのような驚くべきプロジェクトが、きわめて短期間に進行したのです。

本ブログの読者の中には、現代のグローバル時代において文科省が英語教育を強力に推進することは当然であり、そこに何の問題があるのかと思う方もおられるかもしれません。今度の文科省の「英語化政策」の推進については、経済界、特に財界から強力な要望があったと言われています。また、安倍首相は楽天の三木谷社長と親交が深く、その人の影響力が大きかったとも聞いています。しかしそういうトップからの意向を文科省が汲んで(最近の流行語では「忖度して」)、多くの教育専門家の警告(注2)を無視するような決定を次々に進めていることを知れば、誰もが不安を感じるのではないでしょうか。ここで立ち止まって、その方針で進めることが本当に日本国民にとって必須のことなのか、そこに何か危険な落とし穴があるのではないか、と考えてみる必要があります。

専門家の警告の一つは、小学校から大学までの日本中の教育機関がこぞって「英語を使える日本人の育成」に力を注ぎ、子どもたちや若者たちが英語学習に多大のエネルギーを費やすことによって、失われるものが少なくないのではないかということです。ここで、施氏が前記著書の第二章で提供している3つの重要な視点を取り上げます。これらによって、私たちは国を挙げての「英語化」への選択が危険に満ちたものであることを認識する必要があります。

1.日本語が「国語」の地位を失う危険があること:もし英語が事実上のグローバル言語として、日本国内でも高度な学問・芸術そしてビジネスなどに日常的に使われることなった場合には、日本語はしだいに衰退し、いわゆる「国語」でなくなってしまう危険があります。かつてイギリスなどの植民地であった国々(たとえばフィリピン、インド、インドネシアなど)が、彼らの第二言語である英語でしか高等教育を受けられないために、いかに苦労してきたかは周知の事実です。それは彼ら自身が統一した「国語」を持っていなかったことにも起因します。彼らは英語でしか学問や芸術やビジネスを語ることができなかったのです。日本は幸いにして確固たる「国語」を持っていました。それが戦争に負けても、他の国々のように植民地化されることを防ぎ、自分たちの言語で諸外国のすべての学問を修めることを可能にしたのです。

2.「グローバル化=英語化」なのか:「これからは英語の時代だ」というのは本当だろうか。そもそも「グローバル化」というのは世界全体が英語化することなのだろうか。そんなことを単純に信じるのは英語を母語とするアメリカ人などにはいるかもしれませんが、普通の日本人には信じられないことです。日本の総理大臣はG7やG20に出て行って日本語を使わないのでしょうか。そんなことはありません。挨拶や食事中の会話などは英語でするかもしれませんが、きちんとした議論の場には通訳者がいて、首相は日本語を話します。確かに、グローバル化した世界は英語が自由に使える人を多数必要とします。しかし、国民みんながそのレベルに達する必要はないし、どだいそれは無理です。

3.翻訳文化が日本の近代化の原動力である:ヨーロッパの中世において、当時の普遍語で書かれたラテン語聖書の「土着語」(英語、ドイツ語、フランス語など)への翻訳がヨーロッパに近世をもたらしたように、日本は幕末の文明開化の時代から発達させた先進的欧米文化を翻訳によって土着化させることに専念し、それに成功しましました。その努力のおかげで、現代日本人はいかなる先進的学問をも日本語で学ぶことが可能になっています。この貴重な伝統を放棄し、英語一辺倒の教育を推し進めるなど愚の骨頂なのです。

そのようなわけで、英語を偏重する教育を強引に推し進めることはエリート層の一部には役立つかもしれませんが、国民の中核をなす中間層を愚民化する可能性が高いのです。学校教育において、「英語が使える日本人の育成」などという看板は早急に取り下げるべきです。

(注1)「トップ型」の大学には、北海道大、東北大、筑波大、東京大などの国立11大学と、慶応義塾大、早稲田大の私立大学2校が認定され、年間4億2000万円~5億円の補助金が配分されています。また「グローバル化牽引型」の大学として認定されたのは、千葉大、東京外国語大など12の国公立大学と、国際基督教大、上智大などの12の私立大学です。これらの大学への補助金額は年間1億7000万円~3億円です。

(注2)いま筆者の手許にある資料を3冊だけ記します。①山田雄一郎 / 大津由紀雄 / 斉藤兆史『「英語が使える日本人」は育つのか?―小学校英語から大学英語までを検証する』(岩波ブックレット2009年) ②柳瀬陽介 / 小泉清裕『小学校からの英語教育をどうするか』(岩波ブックレット2015年) ③斉藤兆史 / 鳥飼久美子 / 大津由紀雄 / 江利川春雄 / 野村昌司『「グローバル人材育成」の英語教育を問う』(ひつじ書房2016年)