Print This Post Print This Post

今号の第1特集は「英語嫌いを作らないために知っておきたいこと」、第2特集が「再考:教養英語」という編集になっています。今回は第2特集の「教養英語」に焦点をあてることにします。その理由は、第一特集の「英語嫌い」の問題はこれまでも再々取り上げられてきたテーマであり、今回特に目新しい論考も見当たらなかったのに対して、第2特集の「再考:教養英語」というテーマに評者が興味を抱いたからです。興味を抱いた理由は、これが評者のようなold-timerにとって単に懐かしいというだけではなく、そこに言語学習の不変の価値が存在すると思うからです。

第2特集は4つの記事から成っています。これらはいずれも故・渡部昇一氏の薫陶を受けた人たちの文章です。渡部氏はいわゆる「平泉・渡部論争」として1970年代にその名を馳せた人であり、当時英語教育に関係していた人々にとっては今も多くの人々に記憶されている一方の当事者です。とは言っても、あれから40年以上も経った現在では、その論争についての知識をほとんど持たない若い人たちも多くなっているようです。しかし「実用英語か教養英語か」の議論は今もなお潜在的に存在しています。評者自身も、近年の実用英語一点張りの教育を苦々しく思っている一人なので、「教養英語」というと、ひとこと発言をしたくなる人間の一人です。というわけで、この「再考:教養英語」のテーマに興味を抱く英語人はけっこう多いのではないかと考えます。

以下にそれらの記事の概要を紹介しますが、その前にこの雑誌編集部に一つ要望します。それは、毎号のように評者が感じていることですが、第1特集にくらべて第2特集の扱いが粗末に扱われているように思えることです。まず第1特集のあとにいきなり第2特集の記事が続いていて、読者はいつも戸惑うのです。「あれ、これは何じゃ?」と思うのです。第1特集には中扉のページがあって、そこに編集意図が掲載されているのに、なぜ第2特集は「おまけ」のように第1特集の後ろにくっ付いているのでしょうか。確かに編集部の意図は目次に小さく出てはいますが、これは小さくて目に留まりません。そして第2特集の記事も、第1特集ほどではなくても、もう少しスペースを割いてほしいものです。これではほんとに付け足しになってしまいます。

最初は江藤裕之氏(東北大学)の「グローバル化時代の日本の英語教育―平泉・渡部「英語教育大論争」を振り返りつつ」という文章です。江藤氏は「言語は道具に過ぎない」という考え方は言語の本質に対する哲学的洞察に欠けており、そういう考えで学校を知的な場とすることはできないと言い、最近の英語教育が主として経済的・政治的な視点から行われていることを嘆いています。氏は「教養人」を「自らの知見と信念と価値に基づいて判断し行動する人」と定義し、学校はそのための学びの材料を提供するする場であると述べています。そういう意味で、「英語を学ぶことで日本語を意識し、英語により開かれた世界から日本を考えるといった視点から英語教育を再考してみる」ことを提案しています。評者はこの考えを支持し、この言葉を別な表現で、「英語の学びのプロセスを通して、日本語とは異なる世界を、英語による思考法や表現法によって経験する」と常々言うことにしています。

次の織田哲司氏(明治大学)の「ポスト・モダンの英語教育」というタイトルの文章は、「生半可に英語を話せる人材を育成することは、結局のところ英米資本の労働力として使われることを目的としているのではないか」と訝り、ポスト・モダンの時代には、量的なものではなく質的に重要な何かを教える必要があると強調しています。その「質的な何か」とは、AI (Artificial Intelligence) では決して達成できない、人間特有の「知的な精神」だと主張します。それが渡部昇一氏の述べた教養教育だというのです。

次は長瀬浩平氏(桐朋大学・桐朋女子高校)の「暗記のススメ」です。長瀬氏は英文学科の大学1年生のとき渡部昇一氏の授業に出て、先生の言われた学習法を忠実に実行したそうです。そのおかげで英文を書く力と同時に、教養を養うこともできたと感謝しています。渡部氏が強調された学び方は、内容の豊かなテキストを読んで、その原文を暗記し、あとで和訳を見ながら復元するというものです。学生はまず授業で読む部分を和訳してきちんとノートに書いて授業に臨み、授業中にその訳をもっと良いものに改善し、その和訳を見て原文に復元するというやり方です。渡部氏の授業では隔週ぐらいに原文復元の小試験が行われたので、学生たちは終わった範囲のテキスト原文を常に頭に叩き込んでおかなければならなかったそうです。こういうやり方がどこででも通用するわけではないでしょうが、長瀬氏の教える大学や高校のレベルの学校ではうまく行くのかもしれません。

最後は古田直肇氏(東洋大学)による「コミュニカティブを装った文法訳読の勧め――原文復元法の可能性について」です。これは先の「原文復元法」を授業の中心に据えた指導をどこででも通用するように具体化したメッソドの提唱です。まず生徒の予習用としてテキストの中で注目させたい箇所の和訳を与え、その部分を本文から抜き出してノートに書き写させておきます。本文から抜書きさせるだけなので答え合わせは簡単です。そうして浮いた時間を原文復元に当てるわけです。具体的には、「教師がチャンクごとの和訳を言って、生徒に英文を音読させる。ペアにしてチャンクごとの日英変換をさせる。ペアワークの後、教師の言う日本語をパッと英語に復元できるか、指名して確かめる。最後に、そうして自分の血肉として英語表現を使えば答えられる質問を英語でして、生徒に英語で答えさせる」という手順になります。

このように訳読法の発想を転換して、和訳を予め与えて生徒に授業の準備をさせておきます。授業では和訳の日本語を英語に変換して徹底的に読ませ、言わせるようにすれば、生徒の英語発言量は飛躍的に拡大します。何度も読んだり言ったり書いたりするうちに、その大部分は自然に身につくわけです。古田氏は謙遜して「コミュニカティブを装った文法訳読の勧め」としていますが、これを「コミュニカティブな活動を目指す原文復元法」とでも名づければ、そんなに卑下することはないのではないでしょうか。これはこれでコミュニケーション活動に通ずる有効な教授法であると言ってよいように思われます。高校や大学の授業だけでなく、中学校でも、各単元のキーセンテンスの和訳を与えて、それを手がかりに英文の暗誦や応用練習にこの「原文復元法」を取り入れている授業は多いと思われます。(おわり)