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< 英語との付き合い ⑤ >            松山 薫
旧制中学時代 (3)
これほどまでに痛めつけられながらも、私達はまだ、日本が負けるとは思っていなかった。「大日本は神国なり」と教え込まれ、最後には“神風”が吹いて日本が勝つと本気で信じていたのである。一寸心にすきま風が吹いたのは、この年の4月のことだった。月一回だったかの登校日、教室の窓の外には桜が満開だった。担任教師の精神訓話を聞いている時、隣から一枚の紙が廻ってきた。B-29が撒いていった電単(宣傳ビラ)だったが、内容が衝撃的だった。50人ほどの集合写真が一枚載っており” これは沖縄の日本軍の捕虜です“というキャプションが付けてあったのだ。そんなはずはない、と思いながらもついひきこまれて行った。中学生でさえ軍事教練で叩き込まれた軍人精神、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓はどうなったのだ。わけの分からない思いが頭の中で回転し、ふと気がつくと教師が机の横に立っていた。教壇に呼び出されて10数発殴られた。その程度は日常茶飯事なので、席に戻って隣の奴と顔を見合わせてニャッと笑ったのがいけなかった。今度は徹底的に殴り倒された上、「貴様のような非国民は憲兵隊に突き出してやる。一生暗いところで過ごすんだ」と怒鳴りまくられ、すいませんでしたと土下座して謝った。住民を巻き込んだ沖縄守備隊の全滅、不沈戦艦「武蔵」「大和」の沈没も厳しい報道管制でほとんど国民には知らされず、飢餓状態の中で頑張っていた国民も8月6日、「新型爆弾」が廣島に投下されるに及んで、動揺は隠せなくなった。B-29の空襲にもなれて1機や2機飛んで来ても防空壕に入らず空を眺めていたものが、その後はあわてて防空壕にとび込み、「新型」を落とさないよう神様、仏様に祈った。
8月15日、私は大森の日本工学の工場で研磨工として働いていた。玉音放送なるものを聞いたが、雑音がひどく同室の誰も何を言っているのか分からなかった。そこへ担任の教師が飛び込んできて「戦争は終わった」と叫んだ。「勝ったんですね」と念を押すと、必勝の信念を持っているはずの彼は、「バカ、負けたんだ」と顔をゆがめた。呆然自失している我々に「今日は直ぐ帰宅して学校からの連絡を待て」という。工場の外に出ると社員達が書類を山積みにしてガソリンをかけて焼いていた。こうして日本中で事実を示す証拠は焼かれ戦争の真実は覆い隠されてしまったのだと思う。家へ帰ってラジオを聴くと、大勢の人達が宮城(皇居)前に集まって陛下にお詫びしており、中には腹を切っている人もいると伝えていた。我が高師同期生の中にも、短刀を腹に突き立てかけて思いとどまったという人がいるから、全国では随分多くの人が自決したのだろう。しばらくはなにもする気が起きず、家でごろごろしていたが、学校から出てこいという知らせがあって登校した。食糧難で田舎へ行ってしまった者も多く、細々と授業らしきものが始まった。ところがしばらくたつと、なんと驚いたことに、「非国民」と怒鳴って、私を殴り倒した同じ教師が、デモクラシーなど聞きなれない英語をまじえて、アメリカ民主主義の素晴らしさを礼賛しだしたのである。やがて、連合軍最高司令官のマッカーサー元帥が厚木基地に降り立った。東京近辺の英語教師達が通訳のため厚木に集められたという。通訳としては役に立たなかったらしいが、占領軍は1人ひとつづづ、K-ration(携行食糧)をくれた。英語の教師であった校長が、それを教室へ持ってきた。中からは、もう何年も見たころがないチョコレートやキャンデーが出てきた。少しずつでもくれるのかと思ったら、校長はそれらを大事そうに箱の中に収めて教室を出て行った。もはや何も信じられないという気持ちになって、私の少年時代は終わった。私と同じ時代を生きた作家、城山三郎の「大義の末」、妹尾河童の「少年H」、映画評論家佐藤忠男の「草の根の軍国主義」などを読めば、私の体験が決して特別なものでないことがわかるだろう。
< 付記 >
ここで、戦前の樺太で育った私の家内の敗戦の思い出を付け加えたい。家内は、北海道へ引き揚げる途中、家族の半分を失った。
(無蓋車)
今日は、平成14年8月16日、月齢7.30。昭和20年8月16日の月齢は何日であったのだろうか。
57年前にタイムスリップしてみました。明るい夜でした。暫しのまどろみから覚めると私は無蓋車に、見知らぬ人々と乗り合わせていました。つい30時間余り前までは樺太の玄関である港町に住んでいたのです。8月15日の正午、敗戦となるや、町は脱出するため大混乱となりました。
錯綜する情報の中から父が決断したのは、先ずその夜出港する駆逐艦に母、私、弟、妹が乗り、数日後に出港する連絡船で祖母、脚の悪い伯母、従姉が街を離れるというものでした。祖母は当時まれに見る長寿で80歳でした。
そうと決まるや私たちは夏帯を切って袋状に縫い、紐をつけた俄か作りのリュックサックに手当たり次第詰め込みました。その中には後に紙くずとなる国債も含まれていました。人々は駆逐艦に乗せられ、立ったままに近い状態で真夜中に出港しました。通常8時間かかる宗谷海峡をどのくらいかかったのか、朝日に輝く陸地が見えたときはホッとしました。稚内での時間は水を飲んだことも、何を食べたかも憶えていません。烏合の衆でした。夜になってやっと行き先別に振り分けられ、無蓋車は発車しました。
宗谷本線の名寄駅では土地の人々が、あの凶作の時に炒り大豆を小さな紙袋に入れたものを差し入れてくれました。その袋のあたたかさ、人々の顔は忘れられません。
ようやく人心地がつくと、まわりの様子が目に入ってきました。片方には挿絵画家・竹下夢二の絵とそっくりの若いお母さんと女の子、ハイカラなバスケットまで絵と同じです。お母さんは半ば泣きながら「お父さまはすぐ帰っていらっしゃいますからね。」と女の子に話しかけています。もう片っ方には、一目で漁師のおかみさんとわかるお母さんと元気な子供たちがいました。特大の鉄鍋に茶わん、しゃもじなどが入っています。肝っ玉母さんは、これからの心がまえを言い聞かせていました。
 結果として、祖母たちの乗った船は沈められ慶応生まれの祖母は留萌の海に還りました。家を出るとき私は「ひと足先に行くからね」と、祖母は「追っつけいくから気をつけるんだよ」と言いました。これが最後の会話となりました。      松山慶子

以上