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疎開と受験

敗戦の年の秋、教師達に絶望した私は中学をやめるのもやむをえないという思いで、家族の疎開している秋田の角館へ向かった。中学をやめてどうするかは自分でも見当がつかなかったが、豹変した教師達を見ていると自分まで惨めになってくるのでしかたがなかった。その時、自宅の焼け跡から掘り出した「小野圭の英文解釈」など数冊の参考書を持っていった。当時は上野から秋田の大曲まで18時間かかり、途中の郡山で乗り換えなければならなかった。郡山駅のプラットホームで寝ているうちに列車が来たらしいので、起き上がってみると、枕にしていた参考書の包みは消えていた。再び絶望的な気持ちになって、角館では桧内川の支流で毎日山女や岩魚を追って暮らした。ある日、角館中学へ通っていた弟の本棚にあった研究社の「スクール英和辞典」をぱらぱらめくっていると、巻末に2~30ページほどの文法の説明書がついているのに気付いた。そうだこれで勉強してみようと思い立って、読んでみると結構面白い。そういえば私達は英文法を体系的に学んだことはなかったのである。夜はこの文法解説とスクール英和の単語を憶えることが日課になった。文法解説の方は多分50回くらい読んで、ほとんど憶えてしまった。何かに熱中すると、とことん打ち込んでしまう自分の(よい面と悪い面のある)性格に自ら気付いたのもこの頃のことであった。なんとなく自信がついてくるともう一度勉強したくなった。当時は食糧難で何ヶ月も休学することは珍しくなかったらしく、なんとか学校に戻ることができた。私が英語の勉強をしているのを知ると、海軍兵学校から復員した友人が、兵学校で使っていたという英文法の教科書を譲ってくれた。白い表紙に「英文法」とだけ印刷された厚さ1センチほどの本で、見開きに井上成美校長の序文が載っていたように思う。英文法に興味を持ち始めていた私にとって、これはまさしく宝の本だった。英文法の要諦が簡潔に、一貫性を持って展開されていた。スクール英和の付録で学んだ知識を、これによって敷衍し、整理することが出来たのである。この2冊が私を英語への開眼へ導いてくれたのだから、運命とはつくづく、不思議なものだと思う。英語排斥の嵐の中で英文法書を編纂させた井上成美校長は、最後の海軍大将で、戦後は一切の公職に就かず、横須賀近郊で子供達に英語を教えて暮らした。茅ヶ崎からはすぐ近くなので、一度お目にかかって、話を伺えればと記者根性を思い出したが、先年亡くなり、果たせなかった。
受験期が迫り、何とか上級学校へ行きたいと思ったが、8人兄弟の長男である私には、高等師範学校以外に選択の余地はなかった。当時、日本育英会はなかったし、授業料がタダで、給費までくれるところは,ここ以外には存在しなかったからである。受験生の多くがそういう思いであったらしく、競争率は大変高かった。俄か勉強の自分が合格する見込みはほとんどないように思われたが、ここでまた、不思議な運命が待っていた。(M)